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週刊野良騎士団:No.1

Z速報

出身は

・ティターンズ

・連邦

・民間人

・エゥーゴ

・アクシズ

の5陣営から構成されます。

これは、始めて作るキャラクタには技能の修得にも関係します。

MSはついに『第二世代型』が登場!

・操縦の追従性を飛躍的に高めるリニアシート

・最強の構造材、ガンダリウム・ガンマ

・全てのポテンシャルを高めるムーバルフレーム

大出力・大量のスラスターは従来に倍する機動力をMSにあたえる!

そして、それらすら超えた、脅威の『大三世代型』がキャラクタに牙を剥く!

野良騎士団ガンダムシリーズ・0087、乞う御期待。

以上!


週刊野良騎士団:No.2

団長だ。1/30-1/31のガンダムRPG:0087編はどうだったかな?

感想は随時受付中だ。

今回で既に人死にがでているが0087の売りは異様に高い

NPC死亡率なので覚悟するように。

ただし、強制的に死亡(PCが何をやっても無駄)ということは決してないので、

マスターの投げる難問をうまくこなせば死なないぞ。

検討を祈る。

また、各PCに絡むNPCを出して行きたいと思っていたが、

セイジとダグラスはヤシマ艦長がいて、

セイジとサティアにはフタバがいることから、

ダグラスとガルに関して、

二人の同期であるNPC(かなり、強い?)を出す予定。

乞う御期待。

また、サティアについては連邦時代の恋人を出す予定だ。

プレイヤー氏の許可は取ってある。

さらに意外な方面からの攻めを見せるNPCもでる予定。

一方MSだが、今後続々と新兵器が現れる。

おそらく最強はフルアーマー百式改。ネモシリーズも、

ネモ・ハイマニューバーやネモ高機動型もでる。

ディアス系は2とシュツルム、カノーネ。

宇宙戦ではシャクルズ、地上ではフライングアーマーまで出るぞ。

最終回前には0093にサイコフレーム搭載型があらわれるまで、

総合力最強の名を欲しいがままにするあの機体まで!

なお、次回は3/20-3/21を予定。

以上!


週刊野良騎士団:No.3

団長だ。昨日は神田に行ったのだが、

そこで私の衝動買指数は連日の論文書きのストレスのため、

120%を遥かに上回っていた。

欲望に任せてガンダム関係の資料を買い漁った結果、

合計金額は約10000円に達した。我ながらあきれた。

しかし、これにより資料の充実がはかれたため、

野良騎士団は夏コミにはやはりガンダムで出ることとした。

単純なデータ作りでは他グループには勝てないと思うので、

歴史考察と事件などを扱いシナリオソースになり得る本を目指すこととする。

しかし、スペースファンタジーとアズもやりたい。

ガンダムの目処がつき次第、

この二つに取り掛かるとする。

以上!


週刊野良騎士団:No.4

団長だ。3月の20〜21にガンダムRPGはグリプスの目処つけるが、

夏の出展に向けてアクシズ戦役(ZZ編)もやりたいんと考えている。

(ただし、ルール的には変わらないので、

プレイ自体はしなくても構わないんだが。

MSの性能チェックさえすればいいからな)

それ以外にもいくつか、実はいくつか画策中だ。

今月12日の論文提出後から3/10までが今年前半の私の山場となるだろう。

また、Zガンダムの知識がない人のための読みものも作る予定だ。

…スポンサー殿、貴方のことです。

以上!


週刊野良騎士団:No.5

団長だ。コミケの申込が明日までなのに未だ書いていない、

少々危険信号のともり始めている状況なのがたまに傷だが、

そう言った些細なことに気にしていては立派なオタクにはなれない。

ガル氏、アリス君、

副団長がネットを始めると言う話はどうなっているのだろうか?

彼らがNETに繋いでくれると、

「電話代が非常に助かる」のだが…

近いうちにガンダムRPG野良騎士団版(ver2.0)の配布を行います。

目を通しておくように。

以上!


週刊野良騎士団:No.6

団長だ。コミケの申込は無事完了した。

もちろん、当選するかどうかは別ではあるが。

また、ガル氏がこの度インターネットに接続した模様だ。

実にめでたい。

e-mailアドレスが分かり次第連絡をつけたいところだ。

さて、ガンダム速報から。

現在、オフィシャルデータから客観的にゲームデータを導く式を作っているが、

一部不当に高いスペックを持つものがいて困っている。

…NT−1、お前だ。

幾つかの補正式を考えた上フォローしようと思っている。

また、これにともない、

一部のMSのデータが変更されている。

現在、

最大の恐怖は本にした場合、

どれほどページ数になるかと言う点だな。

これは深刻な問題であり、

火急的速やかな対処を要するといえる。

ページ数が増えるとコピーが大変になりすぎるしな。

つぎに、

ガンダム以外の活動状況だが…進展は無い。

非常に申し訳ないが私も何故か時間が出来ないのだ。

最後に今後の予定だが、まずはガンダム。

次に最優先はアドベンチャラーズサーガ(名称変更の可能性あり)だ。

これには驚愕すべき隠し球があるのでかつもくして待て。

以上!


週刊野良騎士団:No.7

団長だ。今回はの間は長かったな。

No.5から一ヶ月以上、間があいている。

さすが、週間といえよう。

なお、反論は不許可とする。

本題にはいろう。4/4はご苦労だった。

当方としてはガンタンクに乗ることで新たなる世界が開けて、

それはそれで有意義であった。

しかし、折角の改訂ルールを間に合わせられなかったことが悔やまれている。

そこで、続きは改訂ルールで行いたいと思っている。

また、それにともなう、キャラクタデータのコンバートも考えている。

これについては、アリス君の許可は受けている。

スポンサー殿、ガル氏の意見を聞いておきたいと思っている。

また、次回だが、GW前半を考えている。

各自の日程を出来れば教えてもらいたい。

最後に、

今後『ゲームサークル野良騎士団(LordlessKnights)』で望むことを聞かせてもらいたい。

具体的には、

どのようなジャンルのどのようなパワーバランスで遊びたいかと言うことだ。

この希望調査は常時受け付けている。

以上!


週刊野良騎士団:No.8

団長だ。今回の間はさらに長かったな。

No.7から2ヶ月近く、間があいている。

さすが、週間といえよう。

なお、反論は当然ながら不許可とする。

ちょっと生活にゆとりができたので、

野良騎士団のページを再建したいと思う。

なぜなら、旧ページは体制による弾圧によって

圧殺されてしまったからである。

まぁ、当然RPG関係の記事が中心になるわけだが、

まずは最近MYブームのGURPSである。

とりあえず、『GURPSGS美神極楽大作戦』を片付けてしまおう。

これはどちらかと言うと個人事業なのでサクサクっと終らせねばなるまい。

また、それによる経験を利用して『GURPSスプリガン』

の完成を目指そう。

アーマードマッスルスーツの性能は

防護点:24

受動防御:2

重量:8kg

…そんな馬鹿な。

今週の日曜日はTOEICを申し込んでいる…が、

また無駄金になりそうだ。

何故なら、全く勉強していないから(苦笑)

以上!


週刊野良騎士団:No.9

団長だ。週刊野良騎士団では断定口調を使っているが、これは演出だ。

多少失礼があっても芸風ということで許してもらいた。

だんだん、挨拶のねたが尽きて来たが今回もさっさと本題に入るとしよう。

まず、最近頻繁に更新しているページだが、二つある。

一つはガンダム系で

http://www.hflab.te.noda.sut.ac.jp/~michio/UC.html

もう一つはGS系だ。

http://www.hflab.te.noda.sut.ac.jp/~michio/GS_mikami.html

夏コミはガンダム&道具箱&ゴミ袋なので、

どれも関係はある。(道具箱をサクサクっと電子化せねばなぁ…)

なお、ガンダム系がやや優先されるが、

近いうちにGURPSスプリガンの部屋も作りたい。

…なに?ASはどうしたって?…ふぅ、今日も天気がいいなぁ

…で、本題だ。

http://www.hflab.te.noda.sut.ac.jp/~michio/UC.html

において、キャラクタ説明が読める。が、寂しい。そう、

華がないのだ。そこで気軽に絵を書いてくれる人を大募集する(爆)

256色推奨なので、ここで落とせる「D-Pixed」がいい感じ。

また、手書きでも、遂に殿下の宝刀スキャナーが使用可能になったので構わない。

http://www.win.ne.jp/~doichan/

諸君らの奮起を願う。

また、次のセッションの調整をしたい。

Zをさっさとやりたいところだが、

「筑波の修行僧」を捕まえないことには何ともならないんだが…。

団員O倉氏に電話すれば私より詳しく教えてくれると思う。

(日程の調整は、今回は氏に一任している)

以上!


週刊野良騎士団:No.10

団長だ。真面目に週刊ペースは結構辛いかも

知れないと思う今日この頃だが、

そんなささいなことを気にしていては野良騎士団はやっていけない。

と、いうわけで、今回も

さっさと本題に入るとしよう。

まずは次回の活動だが7/17〜7/18にO氏宅で行なう。

多分、全員認識していると思うがZの続きだ。

良く復習しておくように。

なんといっても、3ヶ月も空いているからな…(苦笑)

たぶん、

内容はZオンリーだろう。

現状では

私はそれ以上用意する事はできないであろうから。

…許せ、私も結構忙しいんだ。

はっ?!今私は何を言ったであろうか?…

話を戻そう。

で、だ。今後のガンダムの展開ですが

「何かこんなのが良いなぁ」的希望があった場合

遠慮せず、連絡してくれたまえ。参考にする。

また、キャラクタールールに若干の変更があります。

「ベテラン強化作戦!!」&「新兵は以下にして

ベテランになるか?」ルールだ。乞う、御期待。

以上!


週刊野良騎士団:No.11

あっと言う間に二週間。コミケまで三週間。論文締め切りまで二週間。常に時間と戦う団長だ。

先週の日曜日はZの続きご苦労さまです。思ったより進まなかったのが心残りだが、一日目はアレクサンドリアとの決戦。二日目はコロニー落とし阻止が山場だったつまりだ。二日目はコロニー落とし阻止は思った程盛り上がらなかったな。許せ、力不足だ。ルール的には問題が無さそうだったのが唯一の救い。機会射撃、戦術射撃まわりが強化されること、確定。…キャラシート無くしてしまったかも…汚濁羅毛にあることを祈る…。

さて、「RPGツールボックス」の製作は順調だが詰め合わせはどうするか…?MAGISでいこうかと思っていたが、急拠変更。暴走のGURPSにするか…

さて、そろそろ本題に戻ろう。本題とは、次いつにするか?と、そろそろK氏や池上氏、ゲームマスターやりましょう。まずは、たぶん慣れているであろうパワープレイあたりでな。日々精進だ。

以上!


週刊野良騎士団:No.12

連日のうだるような暑さ、研究室の凍えるがごとき寒さ、はっきり言ってひ弱な体にはちょっときついと苦笑いをしている団長だ。みなも、体調には気をつけるように。

8月は13日が出陣予定日ですが、14日、15日が我が同志H金が空いていると言うのでTRPG三昧な駄目駄目な日々を送ろうかと思っている。が、池上君は聖戦に出陣、K氏は郷帰りなのでZガンダムは不可能、と。すると…やはりGURPSだな。すっかりGURPS信者になりつつあるかも知れん。まぁ、パワープレイは小人数でやっても面白くないし、GURPSは逆に大人数だとマスタリングが大変なのでちょうど良いのかも知れん。

ガンダムの原稿は大方完成を見たが…どうも編集がうまく行かない。はじめてフッダやヘッダに凝っているからなんだが…あきらめるか?今週いっぱいは粘ってみましょうか。

以上!


週刊野良騎士団:No.13

連休終了、数年ぶりにゆっくりと実家に帰った団長だ。日々暑さにも敗けず家事手伝い日曜大工に精を出す極めて健康的な日々だっよた。

さて、8月は知っての通り、13-15日のゲームが中止になったのでまだ例会は行なわれていない。そこで、28-29日にゲームを行なおうと思う。厨房長K、池上君、広報部長いかるが、副団長が全員集合なので、『Zガンダム』だとおもう。…今度こそ、今度こそ終わらせるぞ。

さて、その他にもいくつかのアイディアはあるが(例えば、広報部長の『トレイダーズ!』だ)今のところはそんなものだ。意見、希望、要望、苦情は随時受け付けているので団長まで。

また、WebPageが広報部長の希望で以下のようになったと言うことをお知らせしておこう。寂しいので、BBSになんか書いてください(爆いや、まじで雑記でよいですhttp://www.hflab.te.noda.sut.ac.jp/~michio/game

さらに、副団長がドリームキャストにより電脳化されたので、数日中にここにくわわることと思う。

以上!


週刊野良騎士団:No.14

とうとう、9月来たな。日々学校には行くがどうにも研究に身の入らない、不毛な日々に苦悩している団長だ。どうにも、休み惚けが抜けていないようだ。周囲の人間の無気力に引っ張られているとは言え、少々、いや、かなりなさけないと自分でも思う。精進、あるのみ。さて、27-29日の例会において、遂にガンダムRPG『0087』が全26話終了した。新ルールである『From0079To0093』も十分に稼働することの確認もとれたし、私の立場としては言うことなしだ。

…まぁ、ダグラス、サティアと連続して死亡者が出た時はZガンダムだけあって、重い空気が流れたが、ガルを助けたくだりで、空気がZZになった感があったな。しかし、私としてはキャンペーンは成功だったと思っているのだが、騎士団員諸兄はどう思っているだろうか?

何はともあれ、ガンダムは私のライフワークなので、今後もぼちぼちとやるし、更新もすると思う。

次に、今後の予定だが、…はっきり言って未定だ。9月後半は学会があるし、その後は私が修論で忙しくなるような気がする。その後は私は就職して、社会人一年生ときているからだ。

しかし、ルール制作やその他創作活動は、筆の向くまま、気の向くまま、今後もバシバシと続けて行くぞ。

最後になるが、今後の候補は以下のものだ。希望があれば団長まで。それの優先順が上がるぞ(笑)

ZOIDSNotTVアドベンチャラーズ・サーガ(仮称)スペース・オペラ・ファンタジー(仮称)GURPSスプリガンGURPSGS美神GURPSオリジナルファンタジー

以上!


週刊野良騎士団:No.15
>

九月も半ばが過ぎ、いよいよ発表の季節がやって来た。今年はあまり本職に力をいれていなかったので、気が思い団長だ。…いよいよ、序文のネタが無くなって来て、苦しい文章になって来たものだ。

さて、気を取り直して本文に行くとする。ますは、先日の例会で行なわれたガンダムRPGはどうだっただろうか?いかるがくんがマスターをやってくれたおかげで、自分がマスターの時は気付けなかったルールの抜けが多く発見できたため、団長本人としてはかなりの収穫のあった一日であった。他のプレイヤー諸氏はいかがであったろうか?

また、ガンダムはいよいよルールが本格的に完成し始めたと思う。それに対応したデータの制作も順調である。団長以外の意見も取り入れながら、ある程度、整合性のあるデータにして行きたいと思っている。

さて、その他の作業の進捗情報だが、ゲームできる状況に一番近いのはSPRRIGANだろう。しかし、さりげなく高まっている、ファンタジー再開を望む声に応え、ついにアドベンチャラーズ・サーガ(仮称)の再編が始動した。今までに無いシステム上で運用する魔法システムのため、長い充電期間を取って来たが、そろそろ、その全容が明らかになる予定だ。

なにしろ、次の例会まで、今回は多少なりとも時間がありそうだからな(笑)

以上!


週刊野良騎士団:No.16

突然盛りかえして来た残暑のなか、諸氏は以下にお過ごしだろうか?相変わらず冷蔵庫のごときの研究室ではそう行った類のことは感じられず、ただ黙々と資料制作に励む団長だ。先日は膨大な睡眠時間をとったためか、身体の調子はすこぶる良い。

さて、作りかけのシステム、手をいれようとしているシステムが乱立しているため、どうも行動がちぐはぐしている昨今であるが、まずは、蹴りをつけやすいものから蹴りを付けようと思う。

いわく、GURPSSPRIGGANだね(笑)。

そもそも、無理にテンプレートなどを作ろうとするから自爆する、とようやく気が付いたので、次からはサンプルキャラクター&各種特徴、および、推奨技能だな。

次にアドベンチャラーズサーガだが、なんとなく、名前を変えたい気分だ。募集中。ちなみに、先行発表として「戦士の書」を出す予定。続いて「冒険者の書」かな?つまり、魔法を後回しにすれば、あまり手直しする必要が無い、と言うことでもある訳だ(笑)

最近はガンダムしか更新していないが、ぼちぼち増やすぞ、と意気込んでみる今日この頃。

以上!


週刊野良騎士団:No.17

秋の夜長は仕事が進むが、その代わり辛いのは次の日の朝、というわけで原稿は進むが心身は消耗する秋は嬉しくもあり、悲しくもありな今日この頃、諸氏はいかがお過ごしだろうか?やりたいことばかりたくさんありすぎて、机の前になんて、じっとして入られない団長だ。

さて、色々あってすっかり後回しになったスプリガンは良いとして、急務はアドベンチャラーズサーガ(略称あず)だ。正直言って、これは万人向けには制作していない。最近のライトファンタジーの魔法使いではない、もっと「魔」の「法」を扱うものを想定しているわけで、Ver2.0のような明るく楽しい冒険はあまり想定していない訳だ。ゆえにプレイヤは選ぶものとなっている。この考え方が、「自分には合わない」と思うのは悪いことではない。そもそもジャンルの時点でその人の趣味と合わなかった、と言うだけの話だから。故に、忌憚の無い意見を望む。

さて、前回はルール面などの不備が色々と合ったが、やはり判定方法はVer2.0に戻すものとする。Ver2.8の方法では重すぎだ。さらに、戦士用特殊攻撃が追加される予定。戦士の書もこっそり進行中。やはり、問題は電子化だぁ(^^;

以上!


週刊野良騎士団:No.18

時間が過ぎるのがこれまでにも増して早すぎる、そんな泣き事を漏らしたくなる今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

前回の例会から既に一週間が過ぎたが、まるでそんな気がしないのだ。本当に既に一週間も経ってしまったのか?信じがたいぞ、と絶叫している団長だ。

いよいよもって、序文が訳が分からないものとなって来た様な気もするが、そんな些細なことを気にしては人間の器が小さくなってしまうと言うものだ。問題ない。日々、研究だけだと心も体も腐ってしまうからな。

そんなことよりも、いろいろと更新しているOriginalFantasyStorysだが、そういえば部屋の隅で苔蒸しているZOIDSもちょっとはいじりたいと思う移り気なところが問題と言うはなしもある。手を広げすぎてないかな…まぁ、しょうがないと自分では思うのだが。

閑話休題。

いかるがくんがこぼしていたことなのだが、最近みんなのRPG中の行動が戦闘オンリーになっていないだろうか?

これはGundamを長くやっていたことの悪影響なのかも知れないが、「殴ってナンボ」「火力で進展」「殲滅こそ至上命題!」となっているような気がするそうだ。それに付いてはは何とも言えないが、確かにそう言った傾向があるのは確かであろう。

RPGは戦闘だけじゃない。

この台詞に対し、異論を唱える人はいないとは思うが、もう一度、自分のプレイスタイルを振り返ってみて欲しい。

なぜ、こんなことを書いているかと言えば、OriginalFantasyStorysといいZOIDSといい、戦闘以外を重視することが主眼となっているシステムをいじっているからだ。

OriginalFantasyStorysは「人間関係」と「感情」と「目的」が

ZOIDSは「対ZOID関係(笑)」と「目的」

が主題になっている。ちなみに、Gundamuの主題は「目的」であった。気付いた方はいるかな?

以上!


週刊野良騎士団:No.19

サラリーマンでも平和を守れるかも知れないこの時代、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

もっとも、軍人もある意味サラリーマンな訳で、民間警備会社なら守れて当然と言う反論が頭をよぎる団長だ。

今回の序文は某地球防衛企業(最近、一番のお気に入り番組だ)の影響を受けてかいたものであり、最近の序文の中では最も書く時の目的意識がはっきりしていたものである。もっとも、出来は今までと対して変わらないものであるが。

では本題に入ろう。

ここ数日、野良騎士団電脳支部(Webページのことだ)が入室不能になっていたが、その原因は不明だ。どうもサーバーの調子がよろしくなかったのだが、その理由が分からなかったと言う訳である。

しかたなく、昨日リブートを掛けて一からやり直したので現在は安定しているはずだ。各自確認してくれたまえ。

最近、考えることがあるがやはりテーブルトークゲームの楽しみは戦闘に集約されると言う考え方が多いのだろうか?なお、映像作品で戦闘に中心が集まるのはしょうがないと考えている。なぜなら、「もっとも映像の特性をストレートに見せる」ことが出来るからだ。いかにSFXを用いても、モノローグのみ、議論のみで試聴者を引き込むのは難しいだろう。

この難問を見事にクリアしている作品で、もっとも諸氏に馴染みが深いと思われるものは「ガサラキ」であろう。同作品に登場する西田という人物の動きがそれだ。思想、主義、説得、交渉、駆け引き…すべて見事に見るものを引き付ける出来となっている。一方、文壇ではむしろ心理描写や人物のやりとりに重点がおかれることが多い。動作、殺気、滲み出る衝動などを見事に書き切るのは非常に難しいからであろう。これは、と思わせるような小説には私は出会っていない。秀作と名高い「燃えよ剣」においても時代の流れと人物の心理の移り変わりは読み取れても、戦いの描写には乏しいと感じざるを得ない。もちろん、富士見ファンタジアをはじめとするライトノベルズにおける戦闘描写は既に言うまでもない。巨大メカ小説がそうであるように、派手な戦闘と言う映像イメージが先行しているからこそ、ぎりぎり成り立っているにすぎないと断言できよう。(自分が戦場にいたことがないため、戦場の雰囲気を文から掴めないだけかも知れないが)

翻ってみて、テーブルトークゲームには当然ながら映像資料が非常に乏しい遊戯である。そこで、派手な戦闘を主題に据えるのは如何がなものだろうか。もちろん、この論は理屈のみに着目して進めているため、人間が感じる「爽快感」に関しては言及していないことから、これをもって結論つけるのは難しいと思うが。

各自、自分がゲームにどう言ったことを求めているのかを考えてくれると嬉しい。最近やっていないため、ヒーローゲームもやりたいと思って入る。

以上!


週刊野良騎士団:No.20

ついに、週刊野良騎士団も通し番号が20に達した今日この頃、諸氏はいかがお過ごしだろうか?

ノンナンバー週刊野良騎士団を初めて送りつけたのが1月で、現在10月が終わりそうだと言うことを考えると、10ヶ月で20号を書いたことになる。すなわち、2週間に1号、と言う訳だ。これは比率だけの話であり、実際にはたて続けに出た時期やなかなか出なかった時期があるわけだが、週刊を名乗ってもぎりぎり許される成績ではないかと思う団長だ。

どうも長い割に身のない序文だと言う気もするが、休日に休めない週が3週間続くことが確定すれば、人間たるもの自ずとやる気もなくなるものなのだ。

愚痴は嫌いだ。本題に入ろう。

19号で「ヒーローゲーム」という言葉に触れた際、「ヒーローゲームとは変身ヒーローのゲームのことか?」という質問があった。

結論から言えば、それは「No」である。そもそも、変身ヒーローのゲームなら「変身ヒーローゲーム」と呼ぶだろう?ヒーローと言う言葉は変身ヒーローも含むが、変身ヒーローに含まれないヒーローもいると言うことを考えれば諸氏にも理解してもらえると思う。

それでは、「ヒーローゲーム」とはなんだろうか?

結論から言えば、それはプレイヤーキャラクターは(ある一定の尺度・作者の価値観によって決定されるもの)絶対負けない超絶的な存在であるか否か、ということで語られる。

極論すれば「ヒーロー」は負けないのだ。一時的に負けることがあっても、最後には必ず勝つ、それが超絶的な存在である、ということだ。それは、極限まで押し進められたご都合主義の結晶である。つまり、「変身することで強力な力を持つことができる」プレイヤーキャラクターを扱うゲームでも、そのキャラクターが成功を、勝利を約束されていなければそれは「ヒーローゲーム」ではないといえるし、「変身すること」はなくても、勝利を約束されていれば「ヒーローゲーム」であると言えるのだ。

この点ですでに、いわゆるヒーロー小説とは全くことなると言えるわけだ。

また、キャラクターの一般からの逸脱度もある。

まだまだ若い(幼い、と言っても良い)キャラクターがその世界でも最強の存在の一角である、というようなご都合も「ヒーローゲーム」ならではと言えるだろう。また、キャラクターの世界に与える負の影響の小ささも重要だ。なお、この世界に与える負の影響とは、そのキャラクターが行なった破壊やそのキャラクターが犯した犯罪行為がどこまで厳密に適用されるか、ということである。

分かりやすく言えば、「ギャグ度」「漫画度」と呼ぶべきかもしれない。ある少女魔法使いは彼女のぶっぱなした大規模破壊呪文にたいする道義的責任をどこまで負うか?ということだ。

ヒーロー性の高い世界では罪や罰はプレイヤーが望めばそれが免除され、低い世界では免除されない、と言える。

なお、キャラクターの一般人から見た場合の強さだが、これはヒーロー性とは厳密には一定しない(ただし、ヒーロー性の高い世界ほどキャラクターが強力なのは確かな傾向だが)。

キャラクターは一般に危険度の高い世界を旅する存在である場合、戦闘能力は高く設定されるものだし、それが自然であるわけだ。

なお、例のOriginalFantasyStorysでもルールを読めば分かるようにプレイヤーキャラクターは基本的に一般人に負けえないほどの強さを持つがヒーロー性は高くない。

諸君らは「ヒーローゲーム」というジャンルとヒーローという名前の定義をどう思うだろうか?ただ、「ヒーローゲーム」とそうでないゲームの間に上下は無く、ただ違いのみがあるということを心に止めておいて欲しい。

以上!


週刊野良騎士団:No.21

バクは本当は非常にいい奴であり、戦士にはああであって欲しいなぁなどと思う今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

ビデオが壊れてダビングが不可能になった今、TVシリーズをコンプリートするのは非常に難しくなったなぁ、と嘆いている団長だ。

それではサクサク本題に入ろう。今日の御題は「ロールプレイングゲームに何を求めるか?」である。

はっきりって、それは究極の問かも知れん。おそらくは人によって求めるものが違うからだ。これは『ロールプレイングゲーム』という幅が広すぎるのが問題となっているように思われる。『ロールプレイングゲーム』という括りは意味的に考えれば、『音楽』という言葉と同じ意味的広がりがあると言えるからだ。

誰もが良く知るように、『音楽』には様々なジャンルがある。ポップスにロックにパンク、クラッシックにテクノにレゲエ、フージョンにインストゥルメンタル。それぞれ製作者が目指しているものも、消費者が求めているものも異なるのだ。そして『ロールプレイングゲーム』でも同じことが言えるというわけだ。

それでは、『ロールプレイングゲーム』を分類するとしたらどのようなものに分類されるだろうか?

この問いに対する明確な答えを得ることは難しいと言えるかも知れないが、自分なりの分類法を用いてここでは論を進めることにする。その考えとは、三次元軸での分類であり、その一つの次元軸は『背景世界軸』、もう一つは『PC強度軸』とする。そして、最後の一つの次元軸は『省略度数軸』である。『背景世界軸』とは、ずばりゲームを行なうフィールドを定める。すなわち、幻想世界、宇宙空間、現代、伝奇風現在、未来、頽廃的未来などが代表的な値であるといえる。『PC強度軸』とは同じくずばりゲームで用いられる、プレイヤーが扱うキャラクターの世界で脅威とされる対象に対する強さを定めている。これの代表的な値には無敵、非常に強力、ある程度強力、気を抜くとまずい、隙をつけばいける、絶対的に無力、などがある。ただし、これは「戦闘能力」にだけ限定した者ではなく、生存能力と考えたほうが良い。世界観によっては例え面と向かって戦えば勝てる場合でも、政治的にあっさりと滅殺されてしまう場合や、罠などで手も足もでなくなる場合などが多々存在するためである。最後の『省略度数軸』とは、どこまでをプレイヤー、マスター双方の常識と知識に任せルールを定めないでおくか、と言う尺度である。ルールは必要悪である、という弁にも確かに一理はありますが、初心者がゲームを行なう場合や、普段面識が無い、共通の背景、思想が無い者同士でゲームを行なう場合になどにはルールは無ければ問題があること、どうすれば良いか分からなくなり、結局は我を通すだけの『ゴッコ遊び』への退行を起こすだけだからである。

ここで、野良騎士団でおおく行なわれている『ロールプレイングゲーム』はどのような分類に位置するかを考えてみる。

例1.ガンダムRPG『From0079To0093』

背景世界軸:未来ロボットが一般化

PC強度軸:気を抜くとまずい

省略度数軸:高め。おおざっぱ(能力、技能の組合せのみ)、

技能ごとへの例示なし

例2.パワープレイ

背景世界軸:幻想世界魔法あり

PC強度軸:気を抜くとまずい

省略度数軸:高め。能力指定のみのおおざっぱ、能力ごとへの例示なし

例3.OriginalFantasyStory

背景世界軸:幻想世界魔法あり

PC強度軸:ある程度強力

省略度数軸:高め。技能指定のみのおおざっぱ、

技能ごとへの例示を行なう予定

似たような傾向が見られることがわかる。すなわち、PC強度は「ある程度〜気を抜くとまずい」程度で、省略度数が高めであると言うこだ。それぞれに対する極端な例としては、「クトゥルフの呼び声(PC強度:絶対的に無力)」や「GURPS(省略度数軸:低め。細かく設定されている)」などがあげられる。この他にもウォーハンマーRPGやロールマスターなど分類の異なるものもたくさんあるのだが今回は省略する。

諸氏はどのようなゲームを望むだろうか?

それを今回挙げた三要素から考えてみると、自分の趣向が分析できると思う。

以上!


週刊野良騎士団:No.22

なにやら団長好みの作品がTVに増えていて嬉し楽しい今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

しかし、まぁ悪いことは重なるもので、何故か2台所持していたビデオがいきなり両方壊れると言う不測の自体に陥り、声無き絶叫をあげ悲嘆に暮れている団長だ。…これでダイガードもジバクくんも∀もZOIDSも見られなくなった訳か…あぁ!!

さて本題に入ろう。今日の御題も「ロールプレイングゲームに何を求めるか?」である。前回はシステムの分類にのみしか触れなかったので、今回はプレイヤーの側から考えて行きたいと思う。

ここ数日、知人と話した折にこの話題を切り出してみた。自分なりの整理としては、プレイヤーから見た「ロールプレイングゲームで求めるもの」は、大きくは、『与えられた命題を、定められた設定(キャラクター)の立場で解く楽しみ』と『自分とは違う人格(キャラクター)で自分には出来ないことする楽しみ』という二つに分けられるのではないかと考えている。なお、自分の考え及び趣向は非常に前者の比重が高いのだが、他の人のそれはおおむね後者よりである場合が多いようだ。

それはもちろんどちらが価値観として勝っているかなどは言えない種類の議論であり、この種の話題自体、意味の無いことのように感じられるかも知れないがもう少しおつき合い頂こう。

まず、前者の『与えられた命題を、定められた設定(キャラクター)の立場で解く楽しみ』の場合、キャラクターの個性は制約となる。つまり、命題を解く方法の選択肢がキャラクターにより狭まるのだ。この説明だと制約を課して何が面白いか、という質問が出るかも知れないが、遊びはすべからく制約があるものなのだ。サッカーで原則的に手を使わないのも、バレーでボールを掴まないのも制約だ。何でもあり、では殺伐とするばかりで面白くないのだ。

話が脱線してきたので「ロールプレイングゲーム」に戻す。ここで言う制約の具体例をあげるなら、D&Dを例にするが、「戦士は物理的な側面から見る」「盗賊は裏から物理的な側面を見る」「僧侶は精神的な側面を見る」「魔法使いは裏から精神的な側面を見る」と言った具合だ。すなわち、「戦士は裏から見ることも精神的な側面を見ることもしない」と言える。これが制約だ。もちろん、戦士はこう、と決められるのは慣れて来ると物足りない。精神的な側面からものを見る戦士をやりたくなる時もあるだろう。それはそれでよい。しかし、戦士の能力は物理的な側面から見ることに適しているので、それは難しくなるだろう。また、その見方が不利になったから、と、その制約を自ら破るのも論外だ。先程の例で言えば、サッカーでボールを腕で抱えこんでゴールまで運ぼう、というのと同じだからだ。

ルール的にこれを押し進めたのが「GURPS」であると言える。このゲームは「正直」、「誠実」などの制約を自ら選択して課せるようになっている。たまに誤解しているプレイヤーも見受けられるがこの制約はプレイヤーに「◯◯だから▲▲が出来ない」と言わせるためのものではないと思っている。「◯◯だから▲▲するには××という手段をとらねばならない」と言わせるもののはずだ。抽象的で分かりにくい文章になって来たので再び具体例を挙げてみる。

例:関所を越える場合

選択肢(A):こっそり山越え(ほぼ有名無実のため、大抵問題なし)

選択肢(B):正式な手形の取得(ただし、時間と金がかかる)

通常、アウトローたる冒険者は選択肢(A)を取ることが多い。しかし、「誠実」なキャラクターはそうはいかない。これは極端な例だがが、大抵の場合にたような形でこれが成り立つわけだ。つまり、制約とは「より簡単な方法があるけれど、自分は◯◯だから、もっと面倒な方法をとらざる得ない」ものということだ。これがGURPSの定める『与えられた命題を、定められた設定(キャラクター)の立場で解く楽しみ』とも言えよう。

次に、もう一つの『自分とは違う人格(キャラクター)で自分には出来ないことする楽しみ』について考察する。こちらはあまり深く議論する必要は無いかも知れない。変身願望は誰にでもあるものといえるし、現実の自分では為し得ないことを体験する仮想現実の楽しさは幼少の頃からのゴッコ遊びにより多くの人が認知しているであろうからだ。剣で小鬼を切り殺すのも、巨万の富を手にいれるのも、未知の恐怖の中で発狂するのも、現実では決して体験することの出来ない刺激的な行為だと思う。

諸氏はどのような『楽しみ』を望むだろうか?

それを今回の話しから考えてみると、自分がロールプレイングゲームでどんな『楽しみ』を求めているかが分かるかも知れないと思う。

以上!


週刊野良騎士団:No.23

最近忙しさがピークなはずだが、それゆえに学校にいる時間が長い。このため、とぎれとぎれには自由時間があり、こうして趣味に費やす時間が出来る。これは皮肉な事実であり、痛し痒しか、などと思う今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

最近はページ自体の構造に手を加えているため内容的には変化が無いため、そろそろ新ネタを出したいのだが、そう言ったものにはまとまった時間が欲しいと思っている団長だ。

ふむ、序文が長い。まぁ、今回は本編も長めなのでよしとしよう。それでは本題だ。今日の御題は「ロールプレイングゲームにおけるプレイヤーのとるべき行動」について考えて行こうと思う。むぅ、御題まで長い。

さて、またもや抽象的な命題を掲げてしまったものだ。No.21で既に述べた通り「ロールプレイングゲーム」とは非常に幅広い範囲を指すものであり、この問いも範囲を考えながら論じる必要があるように思うかもしれない。

しかし、ここでは敢えて一つの集合として考えてみたいと思っている。それはなぜか?

それは簡単に言えばとるべき行動こそが、広いとは言えある一定の句切りのある範囲を定めているからだといえる。例えばNo.21であげた『音楽』の場合、「プレイヤーのとるべき行動」とは「何らかの方法で誰かに意味のある音を出す」事だ。目的も、手段も、結果さえもが様々だろう。しかし、この一点だけは変わらない。同じように広い意味と分野をもつ『スポーツ』の場合、若干幅は広くなるが「プレイヤーのとるべき行動」が一つであると言うことは不変であり、それは「主に体を使った行動に於いて、規定により定められた勝利条件を満たす」ことだと言える。「ロールプレイングゲーム」の場合でも同様に考えられるはずだ。

それでは「ロールプレイングゲームにおけるプレイヤーのとるべき行動」とは何かを考えてみたいと思う。『スポーツ』なら体を使った、という前提がついているが『音楽』にはそれがない。「ロールプレイングゲーム」の場合は性質上後者に近いと考えられる。なんといってもゲームなのだから、条件を一定させる制限があるはずだと考えられるからだ。

「ロールプレイングゲーム」の制限とは、やはり「役割」であろう。これは「ロールプレイングゲーム」が主に複数人のプレイヤーで行なわれるものだからだ。先の『スポーツ』でも指定を少々厳しくし『チームによるスポーツ』とするならば、「定められた役割のなかで、主に体を使った行動に於いて、規定により定められた勝利条件を満たす」となるだろう。サッカーならばキーパーとストライカーはそれぞれ役割が違うし、『音楽』においても複数人で行なう場合には自ずと役割が決まろう。全員同じ楽器で同じ旋律を同じ強さで演奏するようなバンドはそうそうあるまい。複数人で行なう行為である時点ですでに「役割」が制限に加わることは定められていると考えて差し支えないはずだ。

つぎに、実際に行なう行動は何かを考える。『音楽』の場合、「誰かに意味のある音を出す」という部分が実際に行なう行動である。誰にとっても意味の無い音はただの「音」だ。そこに誰かが価値観を見出してはじめて「音楽」になるはずだ。『スポーツ』では「規定により定められた勝利条件を満たす」がそれにあたる。なにも、ただ闇雲に体を動かす訳ではなく、野球ならルールに沿って相手チームより多く得点する、100m走なら他の参加者より短い時間で100mという距離を移動する、という「勝利条件」があるわけだ。(大抵の場合)競うものが無いランニングという行為でも体力を向上させる、といったことや、体重を減少させる、等の「規定により定められた勝利条件」が存在する。注意して欲しいのは、この場合において「勝利条件」を「規定した」のは本人であり、この勝利条件により満足する(納得する)のは本人だけだという点である。これに対し、先に述べた野球や100m走の「勝利条件」は『競技』として多くの人間の了承の上で「規定した」ものであり、その勝利条件により満足する(納得する)のはその規定を了承した全ての人間である。

意図的とは言え、話が剃れすぎてきたので本題に戻る。今考えているのは「ロールプレイングゲーム」においての実際に行なう行動である。前述の他の分野での思考実験を元に考えれば、「ロールプレイングゲーム」のそれは『スポーツ』と同じく「規定により定められた勝利条件を満たす」ではないかと考えることが出来る。

ここまでの結果より、ようやく一つの仮説を導くことが出来た。つまり、「ロールプレイングゲームにおけるプレイヤーのとるべき行動」とは「定められた役割のなかで、規定により定められた勝利条件を満たす」ことという仮説だ。

この仮説は何を意味しているだろうか?

この仮説はいくつかの興味深い事実を示していると思う。順を追って考えて行こう。

まず一つは、「定められた役割のなかで」というくだりから知ることの出来る「プレイヤーは何をやっても言い訳ではない」という事だろう。これは「戦士」としての役割、「盗賊」としての役割などにとどまらず、「トリックスター」としての役割、「純真な少年」としての役割、言ってしまえば「巨大な悪の前にピンチに陥るが、正義と勇気と希望の名の元に、最後に逆転するヒーロー」の役割であったりする。つまり、仲間を守れない「戦士」は役に立たないし、仕事のできない「盗賊」は屑だし、場をかき混ぜない「トリックスター」は存在する意味は無いし、純真でない「純真な少年」はすでに存在自体が矛盾し、邪悪な「巨大な悪の前にピンチに陥るが、正義と勇気と希望の名の元に、最後に逆転するヒーロー」は生きる資格は無いのだ。すなわち、プレイヤー自身は役割を選ぶ事は出来ても、それを曲げる事は出来ないのだ。それでは、『何』が「役割」を「定める」のかを考えなくてはならないだろう。

ここでは、「役割」を「定める」ものは『世界とシナリオ』だと考えた。世界はそのゲーム空間に存在するものはどのようなものかを定め、その中で、シナリオがそのゲームに関係しているものを定めているからだ。再び具体例で説明しよう。ある剣と魔法の国にはスーパーマンは存在しない、だとか、その未来都市には魔法使いは存在しない、といったことを定めるのが世界であり、この事件に関わるのは警察関係者、報道関係者、それと一部の好奇心過剰な一般人、だとか、その魔物と戦うのは戦士と盗賊と魔術師と僧侶を含む十分な戦闘力をもった集団、といったことを定めるのがシナリオということだ。世界についての説明は万人が納得の行くものだと思うが、シナリオについては自由さがないと反論するものがいるかも知れない。しかし、そのような自由などナンセンスだ。例えば、ソードワールドRPGで5000点の経験値でキャラクターを作りゲームをするときに、自由の名の元に500点でセージ技能を一つ取り「近所の一学生」を気どったものがいるとする。システム、またはマスターが、それで彼が他のキャラクターと等しく活躍することを許容する事が必要だろうか。答えはノーだ。もし、それをするのならプレイ中頑張り、努力し、工夫し、5000点使い切ったキャラクターと同じだけ活躍したまえ。これは義務だ。自由の代償は自分の行動への責任だと言う事は誰しもが納得するだろう。

やれやれ、ようやく二つ目だ。二つ目の興味深い事実は「勝利条件は予め規定されている」ということだろう。「ロールプレイングゲームには目的がなく、自分で決めるのだ」という言葉を聞く事もあるが、これは正確ではないのだ。ロールプレイングゲームは基礎となる勝利条件の他に副次的な条件(目的)を定める事が出来る程の奥行きをもっているに過ぎないのだ。

ここでいう「規定」とはすなわちルールの事であり、ルールの定めた勝利条件とはすなわちシステム的な報酬…多くの場合は経験点やキャラクターポイント、コネ、新武装などキャラクターをよりその世界に適応した形にしてくれるもの…を得る事だと言える。何故かこのような事が言えるのか、また、自分のキャラクターは強くなくてもキャラクターらしくあれば良いと言う言葉をたまに聞きくが、システムを製作した者にとって推奨する行動に対して与えるのが報酬なのだから、これは間違い無いだろう。ラグビーの試合中に美しい砂の城を作っても邪魔がられるだけなのだ。

補足になるが、多くの場合システム的な報酬を得られるのはシナリオを完遂した時である。このことから、多くのロールプレイングゲームは「シナリオを完遂する」ことが行動の目標となる、と言えると思う。もちろんいくつかの例外はある。天羅万象は業と呼ばれる葛藤を経験する事によってのみシステム的な報酬を得られるし、パワープレイでは実際にプレイを行なった時間に対してのみシステム的な報酬が支払われる。このあたりはプレイヤーの能力と良心に期待しているのだろう。

そして三つ目…最後の一つだが、「キャラクタープレイの演出はロールプレイングゲームの基本には関係が無い」ということだ。最近ロールプレイングゲームを始めた人間は、不幸にもこのことに気付いていない気がする。なお、キャラクタープレイとはそのキャラクターの人格的特徴や背景を演出することを指すものとする。もちろん、システム的な報酬をもらうためにはキャラクタープレイを推奨しているシステムもある(先程も挙げた天羅万象だ)。しかし、それは本質ではない。天羅万象などですら、本質的には基本である定められた役割のなかで、規定により定められた勝利条件を満たす」という原則を否定しているものではないと思う。基本を失いそれ以外を助長することは、そのものの存在自体を危うくするからだ。キャラクタープレイはロールプレイングゲームの一要素である。しかし、一要素以上ではないのだ。ホームランを打った選手が観客にするパフォーマンスは、あれば楽しいが無くても困らない。一番質が悪いのが打ちもしないのにパフォーマンスをすることだ。

今回は本当に長くなってしまった。しかし、それは大事な事…基本だったからだと信じる。ただ、団員各位これを読み切る程度の甲斐性を期待するのはそれほど理不尽ではないと思う…もっとも、2〜3回に分けて送るべきだったとは反省しているが。

諸氏は何を目的としてロールプレイングゲームをやっているだろうか?

今回の話がそれを考えるきっかけになってくれれば幸いだ。…次は短くまとめます。

以上!


週刊野良騎士団:No.24

人間はどこまで頑張れるか、または頑張らなくてはならないか、そんな哲学的懐疑が頭をよ切る今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

「疲れ」と言うのはある一定値を超えると「痛み」に変じると言う事実を痛感している団長だ。

うむ、簡潔にまとめられた。この調子で本編も簡潔に行こう。しかして、今回の御題は「キャラクターレベルとプレイヤーレベル」だ。荒れる内容なのは覚悟の上だ。

大抵のロールプレイングゲームにおいて、キャラクターはゲームをすればする程強くなる。強くなるとどうなるか、といえば、出来ることが増える。つまり、選択肢の幅が広がるのだ。これはそのキャラクターのコントロールが難しくなることを意味する。また、ここでいう「強くなる」とは何も技能値の上昇には限らない。経済的に豊かになる場合なども「強くなる」わけであり、選択肢の幅も広がる。

選択の幅は広ければ広い程良い、そういう迷信がある。

断言しよう、これは間違いだ。十分な知識があるなら様々な選択肢から最良の手段を選べるだろう。しかし、数こそは多くないが、もとからある程度適切な選択肢が与えられている場合は、最良ではなくとも最悪はない。もしも、知識もなく広い選択肢が与えられたとしたら、そこに存在するのは判断ではなく、ただの運試しになりさがる。それは超能力開発テストかロシアンルーレットであり、スリルはもたらすがそれ自身が意義を持つことは無い。

翻って世を見渡そう。近来、世に多く出回っているものの大半はキャラクターは十分に強く、また世界観も魅力的で様々な可能性に満ち溢れている。D&Dで1レベルからキャラクターを育て上げ、一つのキャラクターを三年間もやり続けたような凄腕たちを相手にするのに十分なものだろう。

しかし、それほどの腕を持ったもの達がどれほどいるだろうか。

多くは出来もしないキャラクターの中で、選べもしない選択肢に溺れ、周囲に流されることで冒険した気分になり、マスターの手の平の中で成功した気分に浸りながら安穏と腐れ爛れるに任せていると言っても過言ではあるまい。

出来ないことは悪では。知らないことは恥ではない。試みようとしないことが悪で、知ろうとしないことが恥なのだ。まずは穴蔵に潜れ。まずは小鬼と勝負しろ。生き残る術を、戦う術を、戦わずに済ます術を身につけろ。最低でも、それが必要だと言うことには気付いて欲しい。小説、ガイドブック、サバイバルハンドブックなど、ファンタジーやらサイバーパンクに拘る必要はどこにもない。学ぼうとさえすれば、あらゆることから学べるのだ。隣にいるプレイヤーのレベルが高そうならば、その技術を観察し、自分なりに噛み砕け。そして、そうした下地があってこそ、キャラクターとともプレイヤーもレベルアップしていける。

諸氏はキャラクターにおいて行かれてはいないだろうか?

自分はそんなことは分かっている、もう十分に出来ている、などと言う前にもう一度自分とキャラクターを見つめ直してみることで、より高みを目指すことが出来ると思う。努力を惜しむ趣味など趣味ではない。

以上!


週刊野良騎士団:No.25

今回は少々間が空いたが、粗製乱造はしたくはないためということで、許してもらいたいなどと考える今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

最後のゲームからはや2週間が経とうとしている今、禁断症状で苦しんでいる団長だ。

さて、早速本題に入りたいと思う。今回の御題は「キャラクターについてのプレイヤーの知識」だ。今回もプレイに関する御題である。

最近はロールプレイングゲームに関する書籍はとんと見かけなくなったが、インターネット上では様々な文書が配付されている。それらに目を通すと、必ずと言ってよいほど目につく言葉がある。それは、「薄っぺらではないキャラクターをロールプレイすることが望ましい」と言った主旨の言葉だ。この言葉は正しいと考えている。しかし、正しく理解されているとは考えがたいとも思っている。

この議論にはいる前に、まず、「薄っぺらいキャラクター」とはどのようなものかを考える必要がある。ここで「薄っぺらい」とされるのは「裏打ちがない」として間違いはないだろう。そして、この「裏打ち」とは「そのキャラクターの存在感」と言い換えることも出来る。また、「そのキャラクターの存在感」というものは「そのキャラクターらしさ」とも言える。これがないと、ロールプレイングゲーム自体が成り立たないとも言える。以上の思考を経て、「薄っぺらいキャラクター」とは、「そのキャラクターらしさのないキャラクター」と言い換えることが出来る。なお、ここまではどの記事でも似たような立脚点に立てている。ここからが問題なのだ。

次に、議論を明確化するために、「そのキャラクターらしさ」の定義と具体例ついて考える必要がある。ここがもっとも誤解されやすいところであり、実際によく誤認されている所である。キャラクターらしさとは、口調や主張、主義や趣向、経歴や称号、服装や髪型のことではないのだ。それらがまったくもってキャラクターらしさとは関係ないとは言いがたいが、それらは本質ではなく如何様にでも変えられることなのだ。本質はもっと基本的な所にある。ここまで書けばもう分かったとは思うが、キャラクターらしさの基本とは、そのキャラクターが必要としている知識と技術のことだ。

例えるなら、料理を知らぬ料理人。

例えるなら、戦う術を知らぬ戦士。

例えるなら、電脳空間を知らぬネットダイバー。

この命題を示すと「そんなこと分かっているさ」といった反応が、自称経験者…特に「勉強なぞせずとも自分はうまくやって来た」と自負している者に程多く見られる。また、知識に関しては、「プレイヤーは知らずともキャラクターがそんなことは知っている」という答えも予想できる。だが、それらは認識が間違っていると言わざるを得ない。それはキャラクターが知っているのは方法でしかなく、いつ、どこで、どのようにその技術を使用するかはすべてプレイヤーに依存するからだ。

プレイヤーの知的能力とキャラクターの知的能力の境界はいつの時代も難しい。キャラクターのそれがプレイヤーのそれよりも低い場合は何とでもなる。しかし、その逆は悲惨だ。理由は涙無しには語れないので割愛するが、諸氏も分かってくれるだろう。三国一の賢者のロールプレイはプレイヤーにも相応の知性を要求するものだ。剣豪のロールプレイは戦のいろはが分からなければ出来ないのだ。スポーツを真剣に楽しむには様々な身体能力が必要なように、ロールプレイングゲームを真剣に楽しむには多岐に渡る知識が必要なのだ。

ここで重要なことがある。ロールプレイングゲームは努力する余地のある活動だ。のんべんだらりとした遊び方をすることも否定はしない。しかし、それを正道とはとって欲しくはないのだ。戦士をやるなるなら基本的な戦術一般は知っていないとお話にならないのだ。戦士ならばクロスレンジの武器も予備に持つべきだし、飛び道具も別に持っておいた方が良い。知能のなさそうなヤツが戦術に裏うちされた動きを取れば裏に黒幕がいるのには気付くべきだし、戦いに有利な地形を探しておいたりすることも必要だ。もう一度言う。ロールプレイングゲームを真剣に楽しむには多岐に渡る知識が必要なのだ。

諸氏は自分がどう言った知識を持ち、どう言った知識をもっていないかを把握しているだろうか?

たかが趣味と思うかも知れない。しかし、されど趣味だ。自分が好きな事を学ぶことは、本質的に言って人間にとって苦痛ではないと信じる。

以上!



週刊野良騎士団:No.26

いよいよもって、週刊野良騎士団の週間ペースが怪しくなって来た今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

久しぶりにコンベンションに行こうと気張っておきながら、寝過ごして行けず腹抱えて笑っている団長だ。やや自爆気味だな。

今回はコンベンションの感想を書こうと思っていたのだが、いきなりそれが不可能になってしまったので、いくつかストックして来た命題を御題にすることにする。今回の御題は「プレイヤーキャラクターの強さ」だ。

昨今のシステムの特徴として、プレイヤーキャラクターが強力であると言う事があげられると思う。初期のロールプレイングゲーム、例えばD&Dなどでは如何に戦士でも作りたてであるならばザコに2〜3回殴られたら死んでしまうし、魔法使いならば一撃で即死と言う事もそうそう珍しい事ではない。これが中期のロールプレイングゲーム、例えばGURPSなどではそうそう死にはしない。同じ時期の日本製品であるソードワールドRPGではさらに死ににくくなっている。そして、昨今のシステムでは死のうとしない限り、そうそう死なない、というレベルである事が少なくはない。また、シナリオ中に生きるためになり振り構わず手段を尽くすといったシチュエーションはお目にかからなくなって久しいとさえ言える。これは無闇に強くなったわけではなく、「ロールプレイを行うにはある程度の強さが必要である」という主張から来たものであると考えられる。

ここで注意して欲しい事がある。昔のシステムはキャラクターが強くならないわけではない、という点だ。はっきり言ってしまえば、一度成長してしまうと、多くのキャラクターに強烈な火力が標準装備されている昨今のシステムよりも遥かに絶対的な存在であると言えるのだ。天羅万象において、明確な戦術と必要な分だけの気合いがあれば、十分に成長したとされるキャラクターを叩き潰すことははっきりいって容易だ。しかし、D&Dにおいて1レベルファイターが10レベルファイターに勝てる可能性は0だと言っても言いすぎではない。

つまり、最近のシステムでは「はじめから高レベルキャラクターを扱う」ことが前提になっているのではないかと考えられるのではないだろうか。たしかにゲームに熟練して来ると最初期のゲームよりも幅広い遊び方ができるため、これは有効な手段であろう。しかし、はじめて自転車にのる人間にモトクロスを与えても戸惑ってしまうように、初心者にこれらのシステムを遊んでもらうのは、正直言って無体だと思える。

またゲームの性質上、プレイヤーは架空世界においてのプレイヤーキャラクターの立場と言うものを認識する必要がある。このとき、世界にとってとるに足らない存在であったとすれば、そういったことはあまり気にする必要は無くなる。しかし、十分な影響力を持っている場合、立場を無視する事はできなくなる。別に、強ければ高い地位につける、などと言う事ではない。影響力が強ければ、好むと好まざるとに関わらず、世界情勢がプレイヤーキャラクターを巻き込んでしまうのだ。考えてみればいい。ゴジラと同等の能力を持つ人間が、静かに暮らしたいから放っておいてくれ、と言ったとしても周りの人はそれを許容すると思うだろうか。答えは書くまでもないだろう。

プレイヤーキャラクターも同じである。その世界において十分な影響力を行使できる程の力があれば、世界の方が彼、または彼女を放ってはおかないのだ。いわんや、高レベルの魔法などを乱発するようなキャラクタ−には少なくても国などがほおっておくことはあり得ない。自分の国に仕えるないかとの勧誘や、国の威信に懸けての討伐隊を派遣が行われるだろう。

長くなってしまったが今回の主旨は、キャラクターには「レベル相応の責任」がある、ということだ。これは無視すればゲームが崩壊する程の重要な事柄である。それこそ、世界を混乱のどん底に叩き落とせるだけの力を持ったもの(そして、自分の力を十分に知っている)が普通に暮らしている、などということはギャグ漫画の世界でもない限りありえないことだろう。

繰り返すが、影響力をもったキャラクターにはそれに応じた責任が生じてしまうのだ。そして、それを踏まえた上でそのキャラクターを扱わねば「力を持った存在」を扱っている意味は無いのだ。それにはプレイヤーが「レベル相応の責任」について知らねばならないが、それは結構な量の書物から得るか、自分自身で成長した経験から学ぶしか無いのではないかと思う。

ここまで書いてしまえば、実は書き出しこそが違うが、No.24


週刊野良騎士団:No.27

早いもので今年の終りも見え、すでにクリスマスの雰囲気が流れ始めた今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

忙しいはずなのだが何故か仕事が手につかず、鳴呼まだ真の意味では追い詰められてはいないのだなぁとぼんやりと考えている団長だ。やや破滅思想だな。

前回の週刊野良騎士団でプレイヤーの知識についての御題三部作を終らせてしまったし、今回はプレイヤー、マスターの立場にこだわらない、ゲーム全般のことを扱うことにした。いろいろと考えたが、最終的に決まった御題は「日本語を使用しないことにより生じる害悪」だ。

人間全般に存在する感性の一つに「自分の知らないものへの神秘性」というものがある。固定した価値観のみの場合は「自分の知らないものへの神秘性」は容易に嫌悪と恐怖に結びつくが、柔軟な思考を持っている場合は「自分の知らないものへの神秘性」は好ましいものと感じられるようになる。また、自分の文化、能力、素養に劣等感を持っている場合、その傾向は一層強まる。外界からある程度隔絶されているが他の情報を手に入れられる、という状況に置いてはそういった劣等感を持ちやすい。逆に完全に隔絶されていれば他を知らないがゆえに自分達が最高だと考えやすくなるし、他との仕切りが無ければ劣等感など抱いている暇は無くなり、自分達の価値を見出さねば生存し続けることは難しい。

このような観点から論じれば、日本人が外国文化に幻想を抱く傾向がある事実を論理的に説明できる。この傾向は同じ言葉でも外来語に直した方がより高尚に聞こえると言う錯覚を産み、議論を行う際や弁論陳述を行う際に横文字を多用する結果を導いていると言える。

これに対し、真に横文字が使われる必要がある場合も存在する。その外来語に対応した日本語が存在しない場合などがそれである。もっとも、自国にたいする溢れる自尊心が存在する場合は代用語を開発することを選ぶことが多いと言えるが、何処とはいわんが中国やフランスだ。

このような背景に対し、現在で多く使われている横文字の多くは前者であるが、ロールプレイングゲームなどの新しい言葉は後者の例と言える。しかし、そのどちらにしろ、内容を把握しているものの間で使用する分には何の問題も生じない。

ただし、言葉と言うものの性質上、その言葉について良く知らぬものもその場の雰囲気と流れの中で使用することがある。これが問題を産む土壌になるのだ。すなわち、正確な意味を把握していないにも関わらず使用され続けることにより、その語の定義自体が変わってしまい得る、ということだ。この害悪の最たる例がジャパニーズイングリッシュといわれるものだといえましょう。もはや語源から離れたそれらの言葉は勘違いした人間に不必要な恥をかかせてくれるぐらいにしか役には立たない。

ここでロールプレイングゲームという言葉に関して一つ問題がある。ロールプレイングゲームいう言葉はジャパニーズイングリッシュとして、語源から離れた存在になったのか、それとも語源を見失っているだけであるか、ということである。知人の知人のセリフを引用するが「RolePlayの日本語訳は『役割を演じる』ではなく『役割を果たす』だ」という主張がある。一方で先のセリフで否定された「RolePlay=『役割を演じる』」と言う説を主張する文献も多い。また、「RolePlay=『配役を演じる(その人物になり切る)』」と主張しているものもあります。また、これら以外にもいくつもの主張があるこでしょう。これは日本語と外来語の差を明確に定義で定めないで来たことによる問題であり、どれが正しい、と言い切ることは難しいと言える。

こういった問題はなにもロールプレイングゲームという言葉に限った問題ではない。アセスメントウやインフォームドコンセント、ォーターフロントなどNHKの報道番組でも平気で出現します。それらの意味を平易な言葉で言い直せる人間がどれほどいるのか甚だ疑問だ。ちなみに、アセスメントは物事を調べ、それがどれくらいの影響力や価値を持っているのかを評価すること、インフォームドコンセントは患者が医師や看護士から検査や治療について、十分に説明を受け、心から納得して検査や治療を受けることに同意すること、ウォーターフロントは川辺りのことだ。

もっとも、世界中の情報が瞬時に世界を駆け巡る現代において悠長に訳語をつくっている暇がないというのは説得力のある意見であるし、日本人には幸い外来語を直観的に概念として理解する能力に長けている、カタカナ言葉の隆盛がそれを物語ってもいる。しかし、辞書や公式な文書などではしっかりと定義を決めておいて欲しいものである。

諸氏は普段自分の口から出ている言葉を子供にも分かる平易な言葉できちんと言い換えることが出来るだろうか?

今回はロールプレイングゲームとは少々離れた御題であったが、今回の様な議論は「世界を共有する」行為であるロールプレイングゲームにおいても異義のあることだと信じる。語感の良さだけで言葉は弄ぶことは相互不理解の始まりと同義だと思えるからである。ちなみに、パンクの意味は「社会通念や道徳に対する攻撃的な姿勢、やり場のない怒りを表現する」である。今まで知らなかった者は正直に手を上げなさい。ちなみに僕もです。

以上!


週刊野良騎士団:No.28

世の中は1999年の週末に向けて加速し、町中が華やいだ雰囲気にある今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

忙しい忙しいと言っている割には意外とのらりくらりしている団長だ。まぁ、拘束時間だけが不当に長いということだな。

最近ゲームをやっていないため、旬の話題というものがないため、今回もマスター、プレイヤーに関係なく知っておくべきことについて書いていくことにする。そこで今回選ばれた御題は「ハック&スラッシュの功罪」である。

いきなり御題に横文字が入ってしまったため、前回に引続き日本語訳の大切さを主張しておこう。ここでは「ハック&スラッシュ=ひたすら戦闘(hack=たたき切る&slash=めった切りにする)」としておく。主に戦闘のみが主題となったシナリオに対する賤称として使われる言葉だ。今から約10年前、日本のロールプレイングゲームが今まさに華開かんとしていた時期において、そのように呼ばれるシナリオは非常に低い評価を与えられ、やっては行けないものの一つとされていた。

また、マスターとプレイヤーもゲームをはじめて数年が経つと洞窟、市街、砂漠、海原、浅瀬、湿地、異次元にロープの上といったあらゆる場所での戦闘をこなし、殲滅戦、奇襲、強襲、防衛戦、大規模戦闘に決闘といったあらゆる状況で生き残り、妖魔、巨人、不死者、魔獣、魔神に同業者といったあらゆる敵を退けており、プレイヤーは戦闘となれば打ち合せなぞしなくとも阿吽の呼吸で戦列を組み、的確な判断のもとに最良の攻撃を行い最小の労力で勝利を得るようになり、マスターも独自の怪物の想像や奇想天外な状況の設定と戦場を捻りだし、一行の死角をつくような戦法を編み出すことに死力を尽くすことを余儀なくされた。しかし悲しいかな多勢に無勢、プレイヤーはそれらをなんなく突破するようになり、マスターにこう言うのだ。「もっと歯ごたえのある事件はないのか?」

こうして、餌を求めるプレイヤー達が満足いく料理を生み出すためにマスターは一人涙で枕を濡らすわけだ。

もちろん、能力的にPCを凌駕する怪物を出すことは容易い。しかし、それではすぐにネタが詰まるかPCが全滅するだけになるのは必定。そこでマスターは今までとは全く違う種類の事件をPCに与えることでプレイヤー達に新たな緊張を与えることに成功した。罪なき人に濡れ衣を着せる高慢な詐欺士の狡猾な詭弁を打ち破り、血と汗と涙の結晶たる売上を根刮ぎ奪い去らんと国家権力を傘にきて横暴の限りを尽くす悪徳税理士の不正を暴くこと。それを為すに鎧ではなく法律で身を守り、盾ではなく聴き込みで危険を受け流し、剣ではなく証拠で弱点をつく。そんな戦いのなんと難しいことか。百戦錬磨のプレイヤー達は新しい戦場にたちまち魅了され、ある時は剣を振り、またある時はペンを振るうようになっていった。

ただし、ここで一つ重要なことがある。「戦いが悪い」のではなく、「武力のみの戦いばかりを行うと飽きる」といっているだけである。これを忘れるとロールプレイングゲームは途端に緊張感を失ってしまう。また、折からのロールプレイングゲームへの女性勧誘風潮と合間って「緊張感ある頭脳による戦い」すらも否定する流れすら大きなものとなった。緊張感を失ったゲームはその本質を失いゲームであることを放棄する。それが悪いとは言わない。しかし、それはロールプレイングゲームから派生した別の行為となることだけははっきりとさせておきたい。そしてこの類の創作行為に熱をあげるプレイヤーはどんなにゲームを行っても、創作能力は上がってもゲームプレイヤーとしては上達しないことがほとんどである。なお、これは実体験に基づいている。

さらに、ハック&スラッシュ的な思想にすらも消し去らんとする傾向はプレイヤーが戦術、生存術を学ぶ要素を剥奪する傾向にある。かくして、歴戦の戦士の能力を持つキャラクターが不様な戦いを繰り広げる羽目になり、それを救済すべくマスターはさらに戦闘バランスを甘くする。悪循環は進み、さらなるプレイヤーの質の劣化を促すことになる。

結局、ハック&スラッシュとは行き過ぎた武力一辺倒の展開を戒める言葉に過ぎなかったのに対し、戦闘が主題になるだけでハック&スラッシュという批判が行われたことが、この戦術、生存術の低下を引き起こした原因であるといえる。ハック&スラッシュという言葉、行為が悪いのではなく、浅慮でこの言葉を使ったことが悪かったといえよう。物事を批評する時には十分に考えてから行いたいものである。もっとも、はじめから結果が分かっていることなどないのだから難しい命題ではあるのだが。

なお、既に何度か述べているが、週刊野良騎士団は「団長とその同志がロールプレイングゲームをより楽しむための暗黙の了解を敢えて文章化し、ささやかながらのシンパの増加と自分自身の啓発」を目的としている。だから文章もきつく、内容も過激だ。しかも偏っている。だが、普段何気なくしているゲーム中にもふと記憶にのこり、自分はどうだろうか?と考えられる内容にしているつもりだ。だから文章もきつく、内容も過激なのだ。また、強調部分は必ず繰り返している。いうなれば印象度をあげるための文章なのだ。

ゲームとは究極的には達成感、爽快感、意外性を楽しむものである。緊張感の欠如したゲームでは意外性を産みにくく、為した後にも達成感は残りにくい。これに対し、単純な武力による解決は達成感、爽快感、意外性全てを強烈に満たしてくれる。ゲームとして産まれたロールプレイングゲームの姿としては荒削りなものであるが本質的なものであることもまた否定できない。そして、何と言っても目的が単純明解で分かりやすい。それゆえに序盤は単純な武力による解決一辺倒になりやすい傾向があり、それをハック&スラッシュと呼ぶ、ただそれだけのことだ。それ以上でも以下でもない、私はそう確信している。

諸氏はゲームに於ける緊張感についてどのように考えているだろうか?

ゲームにとって本当に必要な部分、自分が最も楽しんでいる部分はどこなのかを分析するのも悪くないものであろう。

以上!


週刊野良騎士団:No.29

先生も走る12月、誰しも何かと忙しい今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

泣きながら冬コミの原稿を仕上げている団長だ。

最近はめっきりと感想も減り、感想を寄せてくれるのは参謀長閣下くらいになり、すっかり団員に見捨てられた感のある週刊野良騎士団だが、今年は予定通りならNo.30までは出したいと思う。質の向上も目指すので、どうか見捨てないで欲しいところだ。ゴミ箱直行だけは勘弁してもらいたいのは贅沢な願いだろうか。以上、泣き事終り。

さて、湿っぽいので話題を変えよう。今回は「ロールプレイングゲームと物語」を御題とする。これは、団長と副団長の間で何度となく戦わされた内容である。

まず、何故この命題が何度となく話題に登っているか、その背景について議論することにする。

ロールプレイングゲームプレイヤーの一部は古くから「ロールプレイングゲームとは物語を作って行くゲームである」と吹聴されている。これは、正しくないと考えられる。もしも、「ロールプレイングゲームを行う過程で物語が生成される場合がある」ならば、これは正しい。すなわち、ロールプレイングゲームを行うことは物語を作ることと等しくはないということのだ。このことが、世に広くは認識されていないように思う。

では、そもそもなぜそのような認識が生まれるようになったかを議論する必要があるように思える。もっとも、これについては比較的簡単にその原因を推測することができる。その原因とはリプレイおよびリプレイ小説の影響と考えるのが妥当だろう。リプレイはロールプレイングゲームの認知度をあげるのに多大な貢献を果たしている。また、実際のプレイ風景を想像しやすく、ルールの現場における運用例を知ることも出来、その価値は非常に大きい。しかし、一方でリプレイを読んだ人の興味を引くために、過度に「読んで面白い内容」にされている場合が多く見受けられる。読み物としての方向性を強めたリプレイは「既にゲームを行っている人間」のみを意識している場合が多く、ルールの説明や背景世界の解説などは希薄だ。さらに、実際のゲームよりも物語性を強めてしまっている。その結果、これらを読み、「自分もこのようなゲームをしてみたい」と思う者達が「ロールプレイングゲームとは物語を作って行くゲームである」と認識してしまうのであろうと考えられる。

また、一時期こういった物語性を重んじたゲームが隆盛をむかえたことがある。この理由も簡単に推測がつく。従来のゲームで「狙って」物語を作ろうとすれば、サイコロの出目をいかさまするか、ルールの運用をごまかすしかないからである。物語性を重んじる場合、ルールにこれを盛り込んでしまっているわけだ。すなわち、サイコロの目を無視し、ルールを歪曲することを推奨する、あるいはそれ自体がないか、だ。

また、物語性の強化を目指す主義主張にはもう一つの面白い流れがある。それは禁忌を扱ったシナリオを好む傾向だ。禁忌とは、殺人、違法行為、差別など反道徳的なこと一般や味方同士の殺し合いや裏切りなどを指すものとする。通常のゲームでもそう行ったことが起きる場合は多々存在し得る。しかし、この傾向を好む流れでは、予めそれらが起こることを前提にしているか、起こすことを推奨している点で新しいものといえる。ただし、新しいことが常に優れているわけでもないことに注意して欲しい。それでは、この現象を分析するためにも、なぜそのような傾向が出たのかを考えてみる必要がある。

当然のことながら、禁忌とは従来の社会では禁止されていたことをさす。すなわち、それらを題材にした作品は今までにはほとんどなかった点が指摘できるのだ。つまり、それを題材にするだけで、今までにない、という方向性を得ることが出来る。これはロックやパンクといった音楽の世界でも同様である。禁忌を犯しているものは、内容の有無よりも先に、その外観で既に印象を強くすることが可能なのだ。

また、人間の精神活動とは至極機械的なものであり、「いやな話」は転じて「嫌な記憶」となる。そして、「嫌な記憶」は往々にして忘れにくいものなのである。これは誰しも経験があることだろう。禁忌を犯すことにより生じた嫌な記憶が鮮明に残り、それがあたかも「その物語が記憶に残った」かのように感じられるのである。生理的に生じた動悸が激しい時に人に会うとそれを恋愛感情に誤認しやすいという傾向と似ているよも思われる。

さらに、その禁忌がプレイヤーに取っても禁忌である場合、「滅多に出来ない行動をする快楽」、すなわち子供が卑猥な言葉を使う喜びにも似た快楽、あるいは不義密通による情念にも似た快楽を生み出すことが出来るのだ。

以上の観点から、社会がそれら禁忌を犯す作品群を許容するならば、物語性の向上には禁忌は絶好の題目となり得ることが分かる。そして、このような考えから禁忌を扱ったシナリオを好む傾向が生まれたことは容易に推測できる。ただし、はじめて禁忌を犯した蛮勇の持ち主以外に対しては、この方法に頼り物語性を高めることは安易な選択だといわざるを得ない。

ここまで、ロールプレイングゲームの物語性の強化についてやや否定的に論じて来たが、なにもロールプレイングゲームの物語性自体を否定するつもりはない。「自分自身が思い描いた」物語を「狙って」「ロールプレイングゲーム上で再現しようとする」試みを否定しているに過ぎないのである。

それでは次に、「ロールプレイングゲームと物語」の正常な関係とはどのような関係であるかを論じてみる。

前述の通り、「ロールプレイングゲームを行う過程で物語が生成される場合がある」以上、その関係は縁遠いものではないと考えられる。しかし、冷静に分析すれば「物語」という言葉自体がひどく曖昧のものであることが分かる。所詮「物語」とは「あるまとまった内容のことを話すこと」に過ぎず、行動が首尾一貫さえしていればあらゆる行動は「物語」となりえるのだ。

そして、このことから、「ロールプレイングゲームとは物語を作って行くゲームである」と言う場合の「物語」とは暗に「作為的に内容を調整した、あるまとまった内容のことを話すこと」と定義されているように思われてならない。そして、行く末が指定されたゲームとは往々にして退屈で緊張感の欠落したものとなる。また、参加者がそれぞれに「作為的に内容を調整する」ため行く末は定まっていない、という反論もあるかも知れないが、それではロールプレイングゲームではなく、如何に自分の意見を反映させるかというディベートゲームになるだけの話である。

以上、正常でない関係について考えてみたが、その逆を考えれば正常な関係が分かると思われる。つまり、ロールプレイングゲームにとって物語とは、「作為的でない、結果的に出来てしまうもの」とすることが妥当だと考えられる。副団長の言葉を借りれば「ロールプレイングゲームで物語を作ろうとするな。いわんや、作れるようにルールを変えることなどもってのほかだ」ということになる。

たしかに、冒険した結果、物語が出来るのは楽しい。しかし、物語を作るために冒険するのは本末転倒である気がしてならない。そのためにシステム側で援助できることといえば、好き勝手が出来るようにすることではなく、想像力をかきたてるルール、背景世界の設定くらいではないだろうと考えている。そして、それらは思い通りの美しい感動的な物語を作るためのものではなく、冒険に彩りを添えるものに過ぎないということも忘れてはならない。物語を書きたければ、ロールプレイングゲームはするべきではない。

諸氏はゲームに於ける物語性についてどのように考えているだろうか?

今回の週刊野良騎士団もやや一般論的毛色が強かったが、語り継がれるようなシナリオは、ゲーム中にどうやって物語が生成されていったかを分析すれば、自ずと今回の内容について考えることにもなると思う。

以上!

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