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週刊野良騎士団:No.30

いままさに、2000年が始まらんとする今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

2000年と言えば、きっとレイバーが闊歩しグラドスがやってくるに違いないと信じていたが裏切られた団長だ。あとは、1999年午後11時59分の心臓麻痺に期待だな(元ネタ:『君といた未来のために』)。

冬のコミックマーケットも無事に終り、次なるネタを充実させる期間に入ってはいるものも、幾つか考えておきたいことがあり筆をとることにする。それは団長とその他でもっとも大きな差を産んでいる点かも知れない。今回の御題は「ルールの適切な分量と難解さ」である。

これは最近の私事であるが、18ページのルールブックが厚すぎる、これ以上量を増やすことなど考えられない、と言った台詞がある。また、数年前になるが、ホビージャパンの読者投稿欄へのルールの投稿を行なった際に受けた言葉は「ルールが難しすぎる」であった。私の好むルールとは難解なものであると指摘されているように見えるが、それは客観的に確かと証明できるのか考えてる。

まず、ルールの適切な量を考える上で基準となるべきものを考えてみる。最初に世界初のRPGであるD&Dが思い浮かぶが、マスターズルールブック、プレイヤーズルールブックを合わせるまでもなく18ページを大きく超えている。モンスターや呪文などのデータ欄を除いても、18ページなど歯牙にもかけない量である。それではD&Dは複雑か生きなルールを必要とするゲームだといえるかと問えば、誰しもノーと答えるであろう。

もちろん、D&Dのルールブックはロールプレイングゲームの指針的なことまでも詳しく説明した素晴らしいものである。そのために記述量が増えている面は否定できない。しかし、実際に運用するルール面等に於いても18ページを超えていることは間違いがない。そして、多くの人はそれらルールを難解すぎるものとは見倣していないのである。

また、判定の種類にかけては確かにシミュレーションゲーム的である今回私がコミケに向けて暫定的に用意したゲームの方が、D&Dのそれと比べて多いことも否定はできない。しかし、これは、ロールプレイングゲームのあらゆる判定は表記仕切れないが、シミュレーションゲームは規定された判定でしか行なわないため、その全てを表記できた、と言う差に過ぎない。

本質的にロールプレイングゲームにおいての判定の種類の方が辺かに富み、多くの種類がある。これは事実である。しかし、問題は、この「表記仕切れない」と言う点は用意にデザイナーの逃げ口上となり得るということである。「表記仕切れない」という表現は容易に「マスターの常識で判断して下さい」と姿を変え、そして新たなその表記は戦闘以外のほとんどのことをマスターの常識と言う言葉の下に隠すことになってしまっている。

勿論、マスターが十分に熟練してさえいれば、そのゲームにおいて難易度をどれほどに設定すれば成功率はどれほどになるか直感的に解るようになるであろうし、どういった行為がどれほどの成功率にすれば良いかも経験的に理解できるであろう。しかし、それは熟練が可能とする技であり、はじめてマスターをやるような状況に於いて期待できる行為ではないのだ。そして、そのために、こと細かなロールプレイングゲームの指針的なことが必要となるのだ。それがルールブックの分量を増やすことに繋がるとしても、である。

ロールプレイングゲームに於いてもっとも難しいのは、「どれほどシナリオを難しくするか」という匙具合である。この匙具合が甘過ぎればだれてしまうし、辛すぎればプレイヤーのやる気もなくなる。その指針となる表記があれば、初心者のマスターでも何とかなるが、そうでなければなんともならない。そのようなマスターのもとで、はじめてのロールプレイングゲームを体験したプレイヤーは恐らく二度とロールプレイングゲームを行なうことはないだろう。

誰しも、はじめてというものは存在し、それによる不様な失敗が発生し得ることを忘れてはならないのだ。

一方、分厚いルールは本質的にはそれほど難しい問題を孕まない。気付かなかったルールは「使われないだけ」でしかない。マスターが独自に判断できれば良し。できなければ、ルールブックをめくるだけだ。プレイヤーがマスターの気付かなかったルールを指摘しても大抵はこの一言で終る。「ごめん、気付かなかったんだわ、そのルール。今回は公平を帰すためになしで、次からそれを使おう。OK?」

こうして皆、ルールに慣れていくだけだ。ちなみに、プレイヤーキャラクターの生死に関わる場面でのルールの誤り指摘は往々にして即座に採用される傾向があることを捕捉しておく。

ただし、「通常、ゲームを行なう上で参照する必要のある情報量」は非常に重要である。遊演体から発売された独特なRPGであるビヨンドローズトゥローズやプレイ不能の迷作として誉れ高いアドバンストファンタズムアドベンチャーでは使用されないルールが多々出現するなど、あまりに参照するべきデータが多くなりすぎることの弊害を端的に表している。特にBローズtoローズでは公式のプレイ風景紹介文ですら、ルール構築者自身が使用しないルールがあると明言している。これは余りにひどい例の典型と言えよう。ルールを製作する上では貴重な反例となってくれている。

以上のことを総合すると、随時参照すべきデータは少なく(経験ではA4一枚以下が望ましい)、参考となるべき例示は多いことが望ましい、という一般則が成り立つ。これが今回の御題に対する回答として必要十分なものであろうと思う。はっきり言って、世の初心者向けと称するゲームはこのような分析を全く行なっておらず、ルールを分量を減らすことを至上命題としているように見える。それが全くの逆効果であることにも気付かずに、である。

諸氏はルールの適切な分量と、その運用面での難解さについてどれほどを許容し、どれくらいだと不足している、と感じるだろうか?

今回の週刊は完全に団員向けではなく、団長の考えを知ってもらうための内容となっている。各自がルールの分量はその難易度についてどのようなことを考えているか述べてもらえれば幸いだと思っている。

以上!


週刊野良騎士団:No.31

遂に20世紀最後の年が始まった今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

休み直後の論文も汗かきべそかきやっつけ仕事でごまかして、なんとか時間に余裕を作りつつある団長だ。しかし気付けば修論締め切りまで、あと僅か。なんてこったい

さて、辛い現実からは目を逸し、本題に入るとしよう。今回の御題は「良いシナリオとは?」である。今までは人間の趣向に関わる問題が多かったので客観論では組み立てにくかったが、今回の題目はそう言った心配は一切無いのが嬉しい所だ。

シナリオの内容について議論する前に、まず、シナリオの定義を定める必要がある。この文章を書くためにいくつか文献をあたってみたが、実はどの本にもシナリオの定義は明示されていなかったのだ。これは由由しい自体だと考えられる。なぜなら、たしかにルール付属のサンプルシナリオを読む事や、実際にプレイする事によってロールプレイングゲームで言うところのシナリオがいかなるものかは大方推測できるようにはなるが、それははっきりとした定義ではなく、そもそも日本語で言うところの「シナリオ」とは「映画やテレビなどの脚本」と定義されており、ロールプレイングゲームのそれとは明らかに異なっているからである。

なお、既にここで大きな隔たりがある事が分かる。ロールプレイングゲームでいう「シナリオ」とは「脚本」ではないからだ。事件が起きるのは確かである。しかし、それがどういった結末を迎えるかは「決まってはいない」からである。ゲームマスターが決めておける事は、プレイヤーの行動によっては「こういった結末もあり得る」という予測だけである。

ここまでの議論により、ロールプレイングゲームで言うところのシナリオとは、「冒険の舞台と起きる事件の発端、および深層などの設定、登場人物の設定、およびありえる結末の例を記述したもの」としておく事が出来ると思われる。

次に本題であるシナリオの良さ、悪さについて検討する。ここで注意するべきなのは面白かったプレイのシナリオは必ずしも良いとは限らず、失敗したプレイのシナリオが必ず悪いとは限らない点である。例えば、ギャグゲームにおいてシナリオを全く設定せずに遊んでも、腹がよじれる程笑える時もあります。しかし、それはゲームマスター、プレイヤーの条件が揃った結果の産物であり、シナリオと言う要素は一切介在していないのである。

そのため、シナリオの善し悪しについては、シナリオが介在した結果起きる事象について考える必要がある。また、プレイヤー側から見た場合とマスター側から見た場合の評価点は異なる。したがってそれらそれぞれから見た場合について考える必要がある。

シナリオを直接あじわうのはプレイヤーである。その際にどう言ったシナリオが「ロールプレイングゲームとして」面白いのかを考えてみる。

まず、第一にあげられるのがスリルと冒険である。そして、第二が危険や努力に応じた報酬であろう。要点のみを言えばこの二点だ。

古来、ロールプレイングゲームなどにおいてプレイヤーキャラクター(以下、PC)には旅をすれば困難に出会い、街に入れば事件に巻き込まれるのか、といった言葉があるが、それこそがPCのPCたる結縁であり、もっと言ってしまえばそうでなくてはゲームにならないのでここでは置いておく。シナリオは、この世にもご都合主義なこの事件の山をPCに与えるものである。そして、そこに「失敗するかも知れない」というスリルと「何が起こるか分からない」という冒険がなければならない。

必ず成功すると分かっていることの何が楽しいだろうか?

何が起こるか分かっていることの何が楽しいだろうか?

一方、ハイリスクハイリターンの言葉が示す通り、世の中はうまくしたもので大きな危険や冒険を成功させた暁にはなんらかの報酬があるものである。それは金銭や物品だけでなく、名誉や地位だったりするし、自己への満足感である場合もある。また、それらの複合である場合も多い。そして、もっと直接的には経験値が報酬だったりもする。さらに、それらの報酬は、乗り越えたものの大きさにより、さらに満足感が高められる。多くの場合、強敵や危険な罠を腕と知恵で乗り越えてこそ満足が得られるものなのだ。これは、苦労無く食べる御馳走より、自分で一生懸命作った粗食がうまい、という原理と通じるだろう。いささか規模の小さいたとえで申し訳ないが。

今後はシナリオを作り、管理する側のゲームマスターから見てよいシナリオと言うものを考えてみる。端的に言ってしまえば第一にPCの動ける空間が充分に確保されていること、第二にノンプレイヤーキャラクター(以下、NPC)に存在感があること、そして最後にPC「が」シナリオの行く末を定めること、この三点が抑えてあるかいなかが重要である。

最初にあげたことから分かるように、PCの動ける空間と言うものは非常に重要である。べつに無理に自由度をあげる必要は無い。しかし、シナリオの流れの中でPCが思ったように動けない、というのは問題である。美しいストーリーを実現することを目標としたシナリオは往々にこの点に問題を抱えることになる。なお、「何でも試みることが出来る」と「何でもうまくいく」は当然ながらまったく別問題です。これを分からずにゲームマスターに文句を言うプレイヤーには毅然とした態度が必要です。

二番目にあげたNPCの存在感は、重視されすぎるか無視されすぎるか二つに一つのような気がする微妙な問題である。なお、予め言っておくが、NPCは人間とは限らず、怪物も一種のNPCであること、NPCに存在感がある事とNPCが活躍する事は全く別の問題であることの二点だ。ここを抑え損ねるとNPCがPCの動ける空間を奪ってしまう事になる。また、魅力的な味方や印象に残る敵が出て来ないシナリオはやや味気なさを残してしまうだろう。

最後になったが、PCの行動如何によってシナリオの結末が変化すること、というものがある。これは、当然すぎて言う気にもならない事なのかも知れないが、既存のガイド等などにはあまり触れられていないことだ。どんなにPC達が頑張っても、結果が全く変わらない、そんなシナリオが面白いのはごく稀なケースだろう(無いとは言わない。クトゥルー系で定められた滅びの運命の中で如何にして滅ぶかと言うのもそれはそれで面白くはあるので。しかし、それすらも死ぬ事に対して意義を見出せば、最終的な事象にはなんら変化は無くとも確かに変わるものもあるのかもしれない)。

また、PCがシナリオの終わり方を決める、ということはPCこそがプレイの責任をもつ、と言う事も意味しているだろう。そう言った意味では、PCに責任感をもたせられる、というのも良いシナリオの一条件ではないかと考えられる。

諸氏は何が良いシナリオの条件であると考えているだろうか?

この記事が自分なりに、良いと考えるシナリオを作るきっかけになれば幸いと思う。

以上!


週刊野良騎士団:No.32

2000年最初の月が無事終わろうとしている今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

修論の仕上げのデータ収集用のプログラムを組み終え、結果が出るのを待っている団長だ。しかし、修論後も論文製作に従事する羽目になりそうだ。なんてこったい。

さて、またもや辛い現実からは目を逸し、本題に入るとしよう。今回の御題はずばり、「ロールプレイングゲームと戦闘」である。ロールプレイングゲームにおける戦闘の位置付けや利点、欠点などを論じていく。

ロールプレイングゲームと戦闘は、昔から非常に関係の深いものであったことは言うまでもない。歴史的に見れば、そもそもロールプレイングゲームがウォーゲームから派生したものであり、戦闘がロールプレイングゲームに付きもののように思われるのは仕方のないことだ。

一方、仕組みと効用の面から見れば、戦闘には

1. 一回の判定では片付かない

2. 複数の人数で協力して行なえる

3. 危機に陥ってからの逆転が可能である

4. 情景(戦場、敵など)に変化がつけやすいといった利点がある。具体的には、 1. はゲームの緊張感を持続させる効果を持ち、また、一度の失敗が全体に及ぼす影響が少なく、かつ、何度も特定技能を用いることが出来るという利点に繋がる。 2. は参加者が複数であることが通常のロールプレイングゲームにおいて、複数人が同時に活躍できると言うことは充分な利点となる。 3. はプレイヤーに緊張や焦燥感を与えることができ、また、戦略性、すなわち、プレイヤーが頭を使う余地を広げると言う利点がある。最後に 4. は同じメンバーで複数のシナリオをこなすロールプレイングゲームにおいて飽きが来にくいという利点を生む。

以上のように、戦闘には多くの利点が存在する。いや、存在しすぎるのかも知れない。

ロールプレイングゲームのルールブックを紐解けば、必ず1章以上を割き説明しているものがある。それは戦闘だ。戦闘に1章を割いていないロールプレイングゲームのルールブックは、全体の1%にも満たないであろう。酷いルールブックになれば、戦闘ルールだけ、と言うものも存在する。それも仕方ないだろう。先にも述べたようにロールプレイングゲームにおいて戦闘は大きな魅力を持つのだから。

戦闘の魅力を確認するために、他の行動についても議論する。ロールプレイングゲームの行動は大きく分けて「戦闘」「交渉」「忍び」「探索」「謎解き」の5種類に分けられると思う。ここでは「戦闘」を除いた他の4つについて考える。

ここでいう「交渉」とは、PC以外とのやりとり全般を指す。したがって、情報収集や取り引きなどもこれに含む。現実世界の交渉は、手練手管をもって時には押し、時には引き、相手の出方を窺いつつ、自分の要求を満たすといった過程を持つ。しかし、従来のロールプレイングゲームにおいては、大抵の場合、1人のキャラクターが1回の判定を行なうだけで終了してしまう。この時点でロールプレイングゲーム上で見た交渉の魅力は、戦闘の持つ魅力の 1. から 3. の点で劣っていることが分る。戦闘にはない魅力として、単純な武力以外の要素が重要となる、といった点があげられるが、戦闘技能ではなく、交渉技能を使うと言うだけの話である。また、現状のルールでは、キャラクターの能力よりもプレイヤーの口先が重要視されやすいなどの問題もある。ルールに関係なく、口先のうまいものが活躍するのならば、それはゲームではなく、腕力の強さがものを言うゴッコ遊びである。

「忍び」とは、ここでは開錠、罠の解除、忍び足といった人に気付かれないように、ひそかに行うことをさすものとする。「忍び」には2つの種類があり、一方は個人で行なうもの、もう一方は全員で行なうものだ。個人で行なうものは、開錠、罠の解除といった作業的側面が強いものが多く、行為いった行為は大抵のルールでは1人のキャラクターが1回の判定を行なうだけで終了してしまう。また、全員で行なうものは忍び足など、その場にいるもの全員が強要される運動的側面が強いものが多く、みんな行なうことは行なうが、やはり1回の判定で終了する。そして、大方の場合、その判定に失敗すれば、即その場での目標は失敗となる。また、全員で行なうものも、単に個人的判定をそれぞれ行なっているだけであり、何らかの目標に協力しあっている、という判定はごくごく少ない(ない、とはいわないが)。

3つめは「探索」だ。冒険の舞台に隠された謎や罠、異変などを見つけ出す行為、および冒険の舞台を安全に進むための行為全般を「探索」と定義している。こう言った行動は、現実に於いては小さな事象の積み重ねから衝撃的な事実を発見したりするものだが、ゲーム上ではそう言ったことを再現するのは難しい。また、冒険の道中などを詳しく定義しているルールは非常に少ない。言ってしまえば、和製のロールプレイングゲームのルールブックでは見たこともないないように思う。魅力と言う面から見ても、協力して行なう分けでも逆転が可能な分けでもなく、相当な工夫がなければ盛り上がりにも欠け、変化に富んだ展開とするには非常な努力を必要とするだろう。

最後の「謎解き」は、読んで字の如く、ゲーム中で現れる謎解き全般をさす。単純にキャラクターの能力だけで判定しても盛り上がりに欠け、逆にプレイヤーの能力にだけ依存してもゲームとして面白くない、非常に難しい行動だが、キャラクターの能力に応じてヒントの量を調節する、といった処置も可能ではある。しかし、それを定量的に定めたルールは未だ未見である。

以上のように、仕組みと効用の面から見た場合、戦闘に匹敵する魅力を持つルールが定められていない。それゆえにロールプレイングゲームにおける戦闘の比重が大きくなっていると考えられる。

また、戦闘の比重が大き過ぎるがゆえにゲームが戦闘中心となりやすい傾向を持ち、戦闘自体を排斥する流れにも繋がっている。如何に戦闘が魅力的だろうと、他の要素が僅かでも存在するならば、そちらにも手を出してみたくなるのが人情と言うものだろう。

では、他の行動も戦闘並に詳しいルールを制定すれば良いのかといえば、それも問題を孕む。戦闘はその魅力と引き替えに時間がかかるという非常に大きな代償を払っている。他の場所でもそれに等しい労力を必要とすればゲーム自体が成り立たなくなるだろう。

結論から言えば、ルールの量はそのシステムが何を重視しているか、という点に依存している。これは誰しも納得のいくものであろう。そして、現状のシステムの多くは戦闘のルールの量が多くなっており、先の結論から、現状のシステムの多くは戦闘を重視している、と言える。これは、鍵開けの道具の種類と武器の種類を見比べれば明らかなことだ。

そして、この結論は現状のロールプレイングゲームのほとんどは戦闘に依存するものが多く、戦闘に依存しないためにはシステム自体をそのように設定する必要がある、と言うことを示唆する。もっとも、そんなことはトラベラーやクトゥルフの呼び声を見れば論じるまでもないことではあるのだが。

諸氏は戦闘というものをどう捉え、もし魅力を感じているならば、そのどこに感じているだろうか。

現在、日本において主流となっているプレイヤーの趣向とシステムの流れは、戦闘否定と戦闘賛美の両極端となり、そのどちらにしろ戦闘というものに縛られすぎているように思う。それゆえに、そのどちらにも偏ることなく中庸を目指す必要があると信じる。戦闘は魅力的だ。しかし、一手段でしかない。

なお、戦闘の内容についての議論は次の機会に譲る。

以上!


週刊野良騎士団:No.33

年度末も少しづつ近付き、誰もが何かと忙しくなる今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

修論の仕上げの用のデータに致命的な誤りがあるの気付き、泣き濡れながら補正プログラムを動かしている団長だ。間に合うはずだ…ギリギリだが、間に合うはずだ(自己暗示)。

さて、当然のごとく辛い現実からは目を逸し、本題に入るとしよう。今回の御題は「戦闘における行動について」だ。これは、前回に引続き戦闘に関係したことであり、ロールプレイングゲームにおける戦闘中のキャラクター達の行動とプレイヤーの行動について論じていく。

一般に戦闘中に行なうことが可能な行動として挙げられるものとして、「攻撃」「防御」「味方の援護」「(攻撃や防御を目的としない)特殊な行動」がある。しかし、このなかで「攻撃」「味方の援護」以外の行動を行なうプレイヤーはめっきり減り、「防御」「(攻撃や防御を目的としない)特殊な行動」を必要とする状況を発生させるシナリオも皆無となっているのが現状である。これについて考える前に、戦闘という状態が発生する原因について議論を進める必要がある。

そもそも戦闘とは利害対立に末に発生するものである。また、事件、すなわち非日常な状態が起こる場合には必ず何らかの利害対立がある。ここで、利害対立がある場合に必ず戦闘が起こるわけではない点に注意しなくてはならない。利害対立は戦闘以外にも和解や妥協などによっても解決し得るためである。また、一口に戦闘と言っても、単なる武力衝突から権謀術数による闘い、支持率の奪い合いに至るまで様々な手段があることを忘れてはならない。身近な例で言えば、口喧嘩も喧嘩だということである。

通常、シナリオがはじまると言うことは事件が起きると言うことと同義である。そして、前述のように事件は何らかの対立を伴う。その対立が他の何らかの方法で解消できなかった場合に何らかの手段を用いた戦闘が発生するわけである。また、シナリオと言う大きな流れの中だけでなく、個々の小さな状況(イベント)中に於いても全く同様の原理が働く。例えば、ワンダリングモンスターに遭遇した場合、まず交渉し、それで両者が納得できる結末を迎えられなければ戦闘が発生するわけだ。そして、ここに非常に興味深い考察を行なう余地がある。

世界初のロールプレイングゲームであるD&Dのルールブックにはワンダリングモンスターのプレイヤーキャラクターに対する反応に関するルールが明記されている。しかしながら、ソードワールドRPG、パワープレイ、ブルーフォレスト物語、天羅万象といった和製ロールプレイングゲームほとんどののルールブックには遭遇対象に対する反応に関するルールは明記されていない。

もちろん、これにはある主張が存在する。すなわち、「遭遇対象に対する反応はランダムに決定されるものではなく、シナリオなどで制御するものだ」というものである。この主張の裏にはランダムな要素のある交渉など、ハックアンドスラッシュの悪しき風潮であり、シナリオの流れの破綻を招く、といった空気を読み取ることも出来る。確かに熟達したゲームマスターの手による遭遇表などに因らない遭遇、反応表に因らない反応は非常も面白い上に破綻もない。しかし、練度の高くないゲームマスターにとってはルールがないということが著しく悪い結果を呼び込むこととなる。すなわち、参考にするものがないためほぼ決まり切った対応しか出来なくなる。そしてこの場合の決まり切った対応対応とは、言うまでもなく「交渉決裂即戦闘」である。かくしてワンダリングという概念自体がつまらないものと認識されがちになる。

次に戦闘中の行動について論じるのだが、いざ戦闘がはじまった後の展開の陳腐化も深刻であるように思う。戦闘と言うものが常に死の危険を伴うシステムの場合、プレイヤーは生きるために知恵を絞る必要があった。正面から切り合うだけが闘いではなく、地形を読むことと、周囲を利用することを考え、どうすれば自分達が有利になり得るかを考える必要があった。しかし、近年になりキャラクターが十二分に強くなったシステムにおいては、「戦闘で(望まずに)死ぬ」ということが異常事態であるかのように捉えられており、生きるために知恵を絞る必要がなくなった。かくして、プレイヤーは知恵を絞ること無く「攻撃」「味方の援護」のみ、それもただ闇雲に武力を振るうだけになる。ひどい場合には「味方の援護」と言う言葉すら死語と化す。この現象にもやはりそれ自身を養護する主張があり、それによれば「ロールプレイングゲームの主は戦闘ではなく演技である。従って演技に頭を使うために戦闘で考える必要を無くす必要がある」のだという。もちろん、これはこれで一つの考えだ。しかし、多くのゲームの現場でそれはうまくいっていない。

もちろん、この理由は至極簡単である。役を演じて盛り上げるという行為はプレイヤーにもマスターにもそれ相応の熟練と能力を必要とするが、それに耐え得るだけのメンバーを揃えることはそれなりに難しいからだ。それらを十二分に満たし得るデザイナーサイドは戦闘中心のゲームよりも面白いと思うだろう。当然だ。彼らは楽しむための技能を持っている。しかし、それを誰にでも出来る、かつ、より高度な遊戯として紹介しているためにこのような問題が起きているのだと考えられる。

よく、戦闘中にやることが無い、といった主旨の発言が盗賊や攻撃魔法の少ない魔術師から聞かれることがある。しかし、それはプレイヤー、またはマスターどちらかの怠慢だ(もちろん、両者の怠慢がある場合もあるだろうが)。そもそも戦闘に於いては、正面から敵を殴る以外にもやることなどたくさんある。直接攻撃ならば盗賊お得意の背後に潜む(足場が悪い、障害物が多い程盗賊は有利)、背後からの不意打ち(隠れたらこれに繋ぐのが基本。イシュトバーンもよくやる)、弓やスリングを用いた射撃(ザコが多い、開けた場での闘いならばこれにかぎる。トラップのようにパチンコもあり。)時はなどがあるだろう。また、素早い動きで囮になる(フォースやマールはシューティングスターにすらこれを仕掛けた)、相手の身につけているものを奪い取る(カーラ攻略の鍵はウッドチャックだ)など盗賊がやるべきことに枚挙に暇は無い。そもそも、戦闘自体には参加せず、利用できそうなものを探したり、仲間が敵を食い止めている間に鍵を開けるなどさまざまな行動がありえる。これをしないのがプレイヤーの怠慢となる。もちろん、プレイヤーがそういった行動を宣言した時はマスターも成功にするしろ失敗するにしろ、「試みさせる」必要がある。これをしないのがマスターの怠慢となる。術者系も同様だ。相手の様子を窺い、なにか妙な点は無いかを調べる、弱点は無いか思い出す、など様々だ。人によっては説得が出来たり威圧が出来たりもするだろうし、戦闘後のことを考えるのも立派な行動だ。また、通常の「直接攻撃」魔法以外にも、「遠話」で耳元に囁き集中力を乱す、木の枝を蛇に変えて撹乱する、大音響で敵の連絡を邪魔する、その他工夫などいくらでも出来るはずだ。そういったことを忘れ、戦闘をただ命中ロールを行なうだけの作業に貶めたことこそが戦闘の陳腐化を深刻化させてしまう要因となっている。

さらに戦闘の陳腐化を促進する要素として、戦士の行動の画一化もあげる必要がある。かつて死と青春、栄光と凋落が隣合わせにあった時代、戦士(のプレイヤー)達は生きるために己を磨き抜いた。有効な攻撃法、効率の良い扉の壊し方、戦士なりの誠意溢れる説得法、そして、何が危険かを嗅ぎ分ける鼻、その他ありとあらゆるものを貪欲に身につけた。勝てない戦士に意味は無く、生き残れない戦士に価値は無いのだ。

しかし、時代は変わり、圧倒的な実力を与えられた戦士達は変わった。戦術に意味を見出すことも、機知の必要性を感じることもなくなりつつある。彼らの力を持ってすれば剛よく柔を断つことなど容易なのだ。勝つことを約束された彼らにとって勝利こそが当然で、敗北は物語の都合なのだ。もちろん、戦に敗れても、それはより華やかなる再起のための一段階に過ぎず、泥を啜り草を喰む惨めな生活などありえない。そんな中で戦士達は誰もがかつての聖騎士のように正面から闘い、数々の土臭い生存術は悪漢のものとなってしまった(この結果一番割を食ったのは当の聖騎士だろう。十八番の正面からの攻撃が一般化したのちに、彼らはそのアイデンティティーを保つため、頑固な馬鹿を新しい特徴とする羽目になったからだ)。

十年一日の如く頭を叩くと剣を振る装置になり下がった戦士が場の主役では戦闘がつまらなくなるのも当然であろう。

以上をもってプレイヤーが「攻撃」「味方の援護」以外の行動をしなくなった理由の背景、その問題点などを論じた。そして、これはマスター側にも指摘せねばならない問題でもある。ダンジョンバスター華やかなりし頃、マスターはこれまでにない状況を作り出すことに血道をあげていた。見たことの無い敵、不可思議な罠、難解な謎かけ。毎回様々な趣向をこらした。しかし、ストーリー重視と言う金言のもとに繰り広げられるシナリオは確かにストーりーやリアリズムの面ではダンジョンシナリオを遥かに凌駕するが、その決着は白けた闘いか口先だけがものを言うゴッコ遊びになりがちである。そもそも、ストーリー重視は何度が高いものであり、十分な計画のうえに行なうべきものなのだ。そして、白けた闘いの中に工夫を必要とする状況を見出すにはプレイヤー側に多大な労力を強いることとなる。

魅力的な戦闘が魅力的でなくなる要因について書きつらねたが、諸氏は以上についてどう思うだろうか?

注意して欲しいのが、これらのことはなにも戦闘に限ったことではなく、あらゆることで言えることだということだ。野良騎士団では良く言われるセリフではあるが、マスターが言うべきセリフは「1、2、3のどれにする?」ではなく、「◯◯◯な状況だ、どうする?」であり、プレイヤーが言うべきセリフは「1を選ぶ」のではなく「□□をする」なのだと信じる。

以上!


週刊野良騎士団:No.34

2月もあと僅かで終わり、そろそろ暖かくなる今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

修論発表が終わったが、未だに大学のしがらみから逃れられない団長だ。

完全に3週間の間が空き、ひさしぶりの週刊野良騎士団となったが、今回の御題は「想像力の重要性」だ。前回の最後からの繋がりでもある。

そもそも、ロールプレイングゲームは想像力を必要とするゲームである。そのことについて依存を挟む者はいないだろう。また、そこから派生したコンピューターロールプレイングゲーム、Wizardlyにおいても想像力は重要な要素となった。プレイヤーは数字と文字だけのキャラクター達に感情移入し、画面では一切描かれない彼らに思いを馳せた。それはゲーム中に行える行動が制限されていたからこそ却って強く働いたのかも知れない。

翻って、現在のコンピューターゲームの表現力は素晴らしくなった。また、物語性の強化のため、キャラクター自体に規制の個性が与えられた。しかし、そういった変化をあざ笑うかのように戦闘などの行動はシステムの違いはあれどほとんど進歩はなかった。結果、プレイヤーがするべきことは、ほとんどの場合、ボタンを押すだけとなった。甚だしい場合、プレイヤーはある一定の戦闘なり道程なりを突破した「御褒美」として美麗な画像をみる、という形となってしまう。もちろん、それらも一つの形であり、優劣を断じられるものではない。ただ、想像力の使用頻度が明らかに異なっていることは確かである。

また、コンピューターゲームの表現力の進歩は、いままでロールプレイングゲームの利点とされて来た、集団で行なう疑似体験をも取り込んでいる。それはオンラインゲームとして、すでに広く知られている。一見、オンラインゲームは完全にロールプレイングゲームの後継者のように見える。または、時代に応じて変化した姿と言う者もあるかも知れない。しかし、それは重要な一面を見逃している。オンラインゲームは非常にかゆい所まで手が届く素晴らしいゲームだ。しかし、それゆえにプレイヤーによる想像力が働きにくい。また、致命的な違いとして、運営側にまわらない限りプレイヤーは用意された箱庭の中で遊ぶことしかできない。それはそれでとても楽しいし、楽だ。しかし、ロールプレイングゲームにおけるマスターの楽しみは完全に欠如する。そしてそれは、プレイヤーも、どんなゲームをしたいかマスターと相談すると言う楽しみを失っている事を意味する。そして、失ったそれらはどちらも真に頭を捻ることを要求する行為なのだ。

ここまで、ロールプレイングゲームの周囲の状況を想像力と言う言葉を焦点として観察したが、現在のゲームは、それを必要としない方向へと進んで言っている事が分かったと思う。時代の流れはある程度はしょうがない。しかし、これはロールプレイングゲームを行なう上では大きな問題となる事が容易に推測される。既に述べたが、ロールプレイングゲームは想像力を必要とする遊びだからだ。ところで、ここまでは想像力という言葉を抽象的に使用して来たが、ここで、具体的にはどのような想像力が必要なのかを考える必要がある。

ここでいう想像力とは、別に情景を思い浮かべる力の事ではないし、いわんやキャラクターの姿を思い起こす力でもない。もちろんそれらはあるに越した事はないが、なくても致命的なものではない。なくて致命的なのは、どんな行動をするか、どんな行動をすれば良いかを考え、発想する力なのだ。これがなければ、人にあっては人を切り、神にあっては神を切る事しか出来ないキャラクターの出来上がりだ。それをやるだけなら、ロールプレイングゲームをやる必要はない。きっとオンラインゲームの方が向いている。オンラインゲームでは基本的には話す、殴る、物々交換以外の行動はないに等しいが、綺麗なグラフィックと十分な広さの遊び場が用意されているからだ。オンラインゲームにはなく、ロールプレイングゲームにある楽しみ、それはこの想像力を振り絞ることでゲームを進めることが出来ると言う点に他ならないのだ。

また、想像力と言うと、適当で好きに勝手な発想を行なう事と誤解される事が多いがそれは大きな誤りである。そもそも、全く新しい発想などそうそう出来るものではなく、多くの場合、それ以前に見聞きした事例から、その場にあったものを選び、状況に応じてそれらを再編する応用力こそが想像力の要となる。すなわち、まったく無の状態から導かれるものではなく、その場に合った知識が必要となる。ロールプレイングゲームにおいての話ならば、そもそも自分のキャラクターが何が出来るのか、それはどのような場面で活かせるのかなどを知っておかねば想像も何もないだろう。

また、想像力が重要な役割を果たす事に「常識」という概念がある。ルールではある不条理が定まっている時に、常識に照らし合わせて考え、その結果を想像する事はロールプレイングゲームにおいて非常に重要である。代表的なものに人質の喉に当てられたナイフがある。馬鹿正直にナイフのダメージでのみ考えるなら、人質を即死させる事など出来はしない。部位命中や無抵抗者への攻撃ルールを用いてそれらを再現しようとしているルールもあるが、そう言ったものがなくても常識に照らし合わせ結果を想像すべきだろう。ルールの穴を突くのは楽しいが、それでシナリオを崩壊させては本末転倒だ。何のためにゲームをしているかを考えてもみたまえ。

諸氏はゲームをしている時に頭を使っているだろうか?

コンピュータが非常に行き届いた世話をしてくれる現在、想像力の必要性は少なくなり、意識して鍛えようとしない限り、それは錆びついてしまうのかも知れない。ゲームのためだけでなく、より充実した生活のためにもいろいろと雑学を身に付け、想像力を鍛えてみてはどうだろうか?。

以上!


週刊野良騎士団:No.35

4年に一度は閏年だが、西暦が100で割り切れる年は例外である。さらに400で割り切れるなら、例外に対する例外、つまり通常となる。ゆえに今年は平年である。そう考えると、今年が平年であることは400年に一度のすごいことだと思えて来る今日この頃、諸氏は如何がお過ごしだろうか?

昨日、いや、今朝午前1時に学校を出る時、教授に明朝は8時来るように言われ、真面目に来てみれば発言の主は用事でいない。あげく、今日は夜まで帰って来ないそうだ。これで平静に研究ができる程人間ができてはいない団長だ。

…あと、20日…。

惨い現実からは目を逸し(学生は社会人に比べ楽だと言う。私は社会人になったら発狂するしか手はのこされていないのだろうか?)、本題に入ろう。今回の御題は「色物について」だ。最近、こんなものを読んでいる者はいないのかも知れないが、団員は目を通すように。思うところがあって書いているのだから。

例のごとく色物の定義から調べることにする。色物とは元来、寄席において講談、落語などの話術に対しての漫才、音曲、曲芸、奇術などを指す言葉であり、転じて、本来たいした実力はないが奇抜な行動などで目を引くことに対し使用される。言葉の意味の歪曲が位著しい現代において、異例に移る程この定義はそのまま当てはまる。つまり、色物とは、的確な行動を取れないことを誤魔化すために、奇妙奇天烈な振舞をするものを指す訳である。

また、通常は色物にはふくまれないかもしれないが、「戦闘に強い」「ハッキングができる」「酒に強い」「ダイスの出目が良い」など、ある能力を振り回す事しかできない者も、ここでは色者に含めるものとする。

すなわち、色物とは実力で勝負することができないものに対し与えられる賤称であるといえる。そして、ロールプレイングゲームにおいては、本来の目的であるところのロールプレイング…役割を果たすこと…をせずに本来、手段であるはずの能力や特徴を振り回す事しかできないものに与えられる言葉となっている。また、難しいところではあるが、担当するキャラクターの能力や特徴が甚だしければ甚だしい程、本来の目的をはたすために必要な実力は、より高い物が必要となるということもあげられる。

ロールプレイングゲームにおいて能力や特徴は飽くまで手段である。目的を果たすために存在する、手段なのである。その主従を逆転させてはならない。その能力があるからそうするのではない。そうするにはその能力が必要だったと言うだけの話だ。また、最近の社会は差別に対し寛容ではないため、「戦士の癖に…」や「魔術師らしく…」などと言おうものならば多額の賠償金を毟りとられそうだがゲームの中でくらいは言わせてもらいたい。「戦士の癖に戦術も知らんのか?、強いから戦士なんではなく、みんなを守り敵を倒すから戦士なんだろう」「魔術師らしくものごとを深く先まで考えないのか?鋭い知恵と深い知識、そして超常なる魔法でみんなを助けられるから魔術師なんだろう」

世の中には「一見色物だ、しかし…」といった類の物も存在する。代表的な物に「ルーンクエストにおけるベテランプレイヤーによるダック」がある。ダックとは読んで字の如し、家鴨の姿をした人(亜人というべきか?これも差別用語なのかもしれないが)である。はじめてみた時には色物の中の色物、まさに色物の帝王とも言うべき存在のように感じられるだろう。しかし、外見は家鴨でも中身は歴戦の強者である。ダックがてきぱきと指示し、華麗なロープワークを見せ、冒険の成功に多大な貢献をする時、人は理不尽なまでの感動を味わう事になる。これはあまりに色物指数の高いダックという存在に対しても、行動を行う実力がそれに負けないだけあったと言う場合の例である。これは、逆に「ただ強い戦士」というだけのキャラクターでも、それを下回る行動を行う実力しか持たない場合は色物になり得ると言う事を示している。キャラクターの色物指数の高低はそのキャラクターが色物になるか、それとも一端の存在になるかの絶対的指針とはなり得ないのだ。

もちろん、色物には色物なりの利点も存在する。プレイヤーの練度が低くともそれなりの存在感を示せると言う点だ。もっとも、これは、翻していえば、練度の低さ故に冒険に貢献できないものに、色物という形で華を持たせているだけともいえるが。

しかし、この利点は色物をさらに酷い色物にするという欠点を持っている。なぜなら、プレイヤーの実力を鍛える事なく、冒険に貢献しているかのような錯覚を与えてしまうからだ。これを肝に命じているプレイヤーであるならば足りない分は色物指数に補われながら実力の上昇を目指すかも知れない。しかし、そのことに気付いておらず、色物を演じ、笑いと話題を提供する事で自らに実力があると錯覚してしまっている場合には、これは深刻な自体となる。その人物は実力をつけようとはおもわず、却って色物指数をあげることでインパクトの向上を計るしかなくなるからだ。かくしてそれらキャラクターは一発ネタと笑い話しの素として消費されて行く。そして、色物指数が臨界まで上昇した時、彼はこういうだろう。「ロールプレイングゲームには飽きちゃった」…それはなんとも不幸な事だろう。

諸氏はキャラクターの色物指数に頼り切ってはいないだろうか?

色物は確かに面白い。また、使い方次第ではゲームに新たな面白みも生まれる事だろう。しかし、自分のキャラクターの特性のみで目立つのでは寂しすぎる。そのキャラクターは何をすべきなのか、そのためには何ができるのか…そういったことを噛みしめながプレイしてみるのも悪くないように思う。。

以上!

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